「もりのなかで」について
どうもウイルスがはやって自分達がパニックになる、という設定がどうも自分は好きらしい。そもそもこの時の終わりの物語自体、コロナウイルスからアイデアを得て書いたとみなすかもしれないが、作者としては一連のウイルスのできごとは契機であり、決定的な理由ではないと思っている。少なくとも「もりのなかで」に関しては、原型は自分が17歳の時に書いた作品がもとだと信じている。さすがに焼き直しとまではいかないが、どこかに面影はある兄弟のようなものだ。
雪のような致死性のウイルスが世界に広がり、主人公の少年たちは学校に取り残される。窓を閉めたぐらいではそのウイルスの侵入を止めることもできず、やがて同級生たちの中でも死者が現れ始めた。体育館に死体を運ぶ主人公たちが見上げると、雪のようにその大型のウイルスが降り注ぐ。静かな世界が広がる。
どういたタイトルのものだったのか、それすらも覚えていないが、たぶん実家のどこかを探せば、それを書いたノートがあるはずだ。捨てる事も、読み返す事もなく、自分はそれを保存している。そう当時はすべて手書きで、作品はそのノートがすべてだった。自分はお気に入りのペンで、ノートブックの罫線に上手とは言えない字で物語を書き続けていたのだ。
とはいえ「もりのなかで」も、まったく今の時勢を無視して書いているわけでもない。やはりコロナの影響は確実にあって、それらは作品のところどころに影響しているはずだ。
コロナウイルスが世界中で蔓延したあの年、テレビ画面を前に日に日に感染者が増えていく様子は、今の人間ならまだ記憶に残っている光景だろう。それはまさにゲームのように、世界地図に感染者数が赤く数字で表示されるのだが、数はどんどん膨大なものになり、日本もその例外ではなかった。完全にウイルスを遮断できた国はなかったのではないか。それよりも恐いのが、目に見えないウイルスが原因で人が死んでしまうということだった。まるでそこに答えが書いてあるかのようにカミュの『ペスト』が書店に並んだ。マスクが一気に無くなった。それを手に入れるために、どことなく内心では恥ずかしさを感じながら、自分も何件もドラッグストアを回ったり、列に並んだりしたこともある。当時はどこの店も紙の使い捨てのものは品切れで、代用にウレタンマスクや布マスクが出回った。
コロナの影響はあるにせよ、自分は「もりのなかで」を単なるパニック小説に仕立てたくなかった。それでは17歳の自分とそう変わらない。極限状態で人はどうするか、ではなく、そういったこちらの情状酌量を撥ねつけるような世界に対して(そう、そして自分は今でも世界をそういうものだと認識している)、人はどう生きるのか。
ある意味では世界は残酷である。希望通りにはいかない。人は信頼に値するときもあれば、裏切ることもあり、攻撃性を見せる時もある。他人を助けることもあれば、猜疑心でいっぱいになることもある。
そういった人が織りなす生地が社会であり、その上に国がある。その全部を包み込んでいるのが地球であり、その地球や宇宙すらも包むのが自分のいう世界である。希望通りに行くはずがない。その中で自分は生きている。今日は天国にいると思っても、明日には地獄にいるかもしれない。愛には憎しみに代わり、いつかまた憐憫や理解へと変わるのかもしれない。「もりのなかで」で自分が書こうとしたのは、その小さな断片である。