『ランドリー ノート』について 

 SFとまではいかなくとも、日常から少し離れた世界を書くのは好きだ。自分が歳を取った世界、という感じで書き進めたものだったが、どことなく軽い調子で物語は進んだ。書いていて楽しかった。赤塚不二夫が出て来るところも好きだ。

 以前NHKのテレビ番組でアメリカのランドリーを見たことがある。日本のものよりもずっと広いのが印象的だった。また様々な国の人が、それぞれの事情を抱えながらランドリーに来ていた。この作品のはじまりはその印象からである。

 

 その印象から、当時抱えていた様々な自分の中の要素が入っている。家族の問題とか、『更級日記』の魅力に気づいたこととか(自分はこれを大きな諦めの物語として読んだ)、新しい葬式サービスとか、何度も行ったネパールとか、色々な要素をまじえながら話を紡いでいった。

 自販機のスリの話は、自分が本当にイタリアでやられた体験である。ミラノで20ユーロ取られたが、あれは見事だった。

 カルマ=タマンも、ゴチャ・リンポチェも、ケンポ・リンポチェも本当に実在する自分の知人であるが、彼等に敬意を表して登場してもらった。ボーダナットに行けば、カルマの店があり、ゴンパ(寺)にはリンポチェ達がいるはずだ。主人公が会いに行く日本語を話す〈先生〉もまた実在した人だった。あのとき、精神的な問題を抱えながら、自分は会いに行った。けれども、せっかく真摯に答えてくださった言葉は、あの当時の自分にはまだ理解できなかった。

 

 主人公の元教師の男性は、最初は歳取った自分のつもりだったが、徐々にお世話になったN先生の姿と重なってきた。少し頑固で、でもいい人だった。声が印象的で、事故に遭わなければ、今でもきっと良いつきあいができたろうと思う。亡くなる少し前に、一緒にそばを食べた。これから起こる出来事なんてまるで知らずに、ごく普通の世間話をして、我々は別れた。あれはいい時間だった。

 人は別れる。だからこそ一緒にいる時間は愛おしいものだと思う。誰にでも心当たりのあることだと思う。