『彼方』について
たぶん書きながら、背後に折口信夫を意識している自分がいたような気がする。
折口の『死者の書』は奇妙な小説だ。
従来の小説のように、外側からではなく内側から描くということは、自分が感覚する限りユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』と、この『死者の書』ぐらいしか知らない。それに加えて折口の書き方が異質なのは、登場人物の心理ではなく、感覚に沿って描かれている点である。
簡単に言うと別人になっている。
実生活ではオレンジを甘いと感じる作者が、小説を書くときは酸っぱいと感じて言葉を紡げる。そんな書き方は普通できない。
形式はともあれ、『死者の書』にあるような山の向こうに阿弥陀を見るというビジョンは古くから日本にある一つの信仰の類型だと思った。
「彼方」を書くにあたり、実際に二上山の麓まで行って、その山の姿を眺めた。そう高い山でもない。でも、その山の形を見ていると、それは生活の中の信仰と同時に、何か希望の形でもあると思った。山の向こう。ここにないだけに、向こうにあるもの。ないからこそ、希望できるもの。
しかし、人の希望、そんなものがかなうのか。
欲のような希望のような願いは自分も抱え続けていた。
ここではない、どこかへ行けば何かが変わると思うのは、ほんとうは間違いであると思う。外側から変えてもなかなか変わらない。変わるのなら、まず自分の足元、内側の自分から変化すべきで、そうでないと何も変わらない。
面白かったのは、書いていて最後に「たましい」の問題が出て来たことである。書き始めにはそんな要素は全くなかった。これはまた別の形で自分の作品に出て来るような気がする。