わたしはなにものでもない
「わたしはなにものでもない」これは自分の中で大切にしたいと思う物の見方である。HPをつくるにあたり、宣言のようにこの言葉を載せたが、やはりそれで良かったと思う。
なにものでもない、というと社会的には認められていないだとか、自己の存在を明示しないとか、そういう意味のほうが通じがいいとは思うのだが、考えれば考えるほど自己の意識というものは、もっとつかみどころのないものであるということが分かってきた。
もっとはっきりと言おう。
わたし(つまり自意識)とは、独立して存在しているものではない。それは外と内の間にかろうじて成立しているシャボン玉の膜のようなものだ。あの膜、よく見るとずっと表面が動いていますよね。あんな感じ。あるいは「り」と「ん」と「ご」のように、ばらばらの要素を組み合わせたときに現れる概念のようなものだとして、考えている。
自分という存在は何なのか、なぜ自分はこんな風に考えたり、悩んだりしてしまうのか、日々の中であれこれとそんな事を考えているうちに、いよいよ自分というものは絶対的なものではないと思うようになってきた。
去年の自分と今の自分は違う。おなじものを見ても、その反応の仕方は全然違うし、もっと時間を細かくしてみても、一分前の自分と今の自分もやはり違う。少し自己観察をすれば分かるが、注意というか思考というか、自分の中の焦点は、実のところめまぐるしく変わっている。まったく固定されていない。
「サトリ」という妖怪がいて、これは人の心を読んで、「お前はいま怖いと思ったろう」と指摘するという能力を持っているということだが、本当を言えば人の心などそんな風に一単語で示せるものではないのだ。「お前はいま怖いとも思ったろう」とでも言えば別だが、そんな妖怪話は味がない。
自分の内部だけでもそんなふうにややこしいのに、それに加えて、存在はそれ自体で成り立っていないという事実がある。自己意識という点に目を付けると、先ほど「怖い」と思うには「怖いと思わせる外部要因」が必要なのである。
一度意識してみれば良いが、これを読んでいるあなたの周囲には音や、色や、感覚が溢れているはずである。ごく短い時間の間に、我々は自意識の必要に応じて、何かの対象を選んでそこに感覚を集中している。文字だったり音だったり、あるいは触感だったり。今これを書いている自分だって、意識を画面に向けることもできれば、キーを叩いている指先に注意することもできる。そんなふうに自己意識は外の世界を感受するようにできている。
ようするに、外部の環境があってそれを五感でとらえている。味覚、嗅覚、触覚、聴覚、視覚、それらばらばらの刺激を脳が統一したものとして処理しているのだろう。その統一したものが「わたし(自意識)」ということになる。となれば、わたしというものは常に変化するものだ。だって外の環境もやはり変化し続けているのだから。
そのように移ろい続ける「わたし」達だけれども、生きていく上でそれらを固定する必要がある。本質的には昨日のわたしと、今日のわたしは別人とは言え、まったく違うものだと扱ってしまうと人間は生活できなくなってしまう。そうなっている。
だから人間は言葉を使う。名義を付ける。それを使う事で、変化し続ける存在を、自分たちの手中になんとか収めた。たとえば「人間」「男/女」「大人/若者/子ども」などなど。
言葉の発明は世界を固定させる。そうしてその固定された言葉のフィルターを通して、世界を見るとき、それはまた別の意味を与えてくれる。子どもは言語以前の世界を生き、やがて言葉を獲得すると同時に世界を再発見するのだと思う。
そう考えると、造語が世界の可能性を広げるというのは正しい。真偽のほどは知らないが、夏目漱石が「肩こり」という言葉を使ってから、我々の世界には「肩こり」が現れた。
そして人は、言葉はこの世界のものを指し示すだけではなく、意味を有した言葉を組み合わせることで、目前にはなくとも新しいものが生まれることに気付いたのだろう。詩の誕生から物語の誕生はもう近い。
話が言葉に移ってしまったから戻すが「わたしなんてなにものでもない」と気付いたとき何か気持ちが楽になったのだった。それは常に移り変わるものなのだ。無理にこだわるのはよろしくない。諸行無常。確かに。
そうして「なにもでもないわたし」という視点から「死」を考えると、どうしてもいわゆる霊魂的なものが想像しにくい。周囲の世界を感覚する器官ですら機能しないのだから、それは夢のない睡眠に近いものだと思う。
今のところの自分は「死」をそのようなものとして理解している。
そうして自分は分解していく。触覚が消えて、嗅覚が消えて、味覚が消えて、視覚が消えて、聴覚が消える。そうしてもう入力要素がなくなれば終わる。同じようにして、自分たちは発生していたのだから、その逆を辿るのだろう。
そうして最後に「自分」が関わった人に、その記憶や影響が残る。どこかで誰かが自分の事を思い出すかもしれない。でもその人達もやがて死んでしまい、いつかは「自分」という存在は完全に消える。そんな風にして多くの人たちが消えていった。