なぜ小説を売ろうとするのか?

 ほんとう言うと、お金を取ることに申し訳なさもあるのである。

 そもそも仕事というのはまず「必要」に応じて生じ、それに応えるから金額が発生するというのが、理想的な世の仕組みだと思っているところがあるから、必要とされていないところに売りにいくというのは、そのようなつもりはなくても、どこかで相手を騙しているようなうしろめたさが伴う。

 もちろん誰かが依頼してくれて、それに応えているうちに仕事が続いていった、というのが一番気も楽なのだろう。向こうが好きといってくれて、こちらはそれに応えるという構造は、こちらが優位に立てるし、気持ちも楽だが、そうならないのが自分の現状である。

 どこかで欲望を喚起しないといけない。それはコマーシャルであったり、パッケージングとか、販売戦略であったりするわけだが、そういった「売り込み」がどうも苦手なまま、今まで来てしまった。昔からそうだった。

 売れるため、注目されるため、という言葉が好きではない。そこには、利益の方が先にたって、一番大切な中身自体がなおざりにされているように感じるから。理想に過ぎないが、ほんとうに良いものならそれはいつか届く。必要とされている人に届く、ということを信じたい。なるべく余計な思惑を外したい。

 

 ところが、組織の中にいて、日々仕事をする限りにおいては、自分の場合、案外そういったことは考えないものである。要求される仕事に応じて一日を過ごしていると、月末にそれらの対価が払われる。まとめて支払われることとか、会社で多くの人とすごしていることが、この感覚を鈍らせる。ここでは、お客の顔を見て、そこから直接金額のやりとりをするという行程は見えなくなっている。

 自分が小説を売ろうと思ったのは、収入のためではない。人は無料で貰ったものを大切にはしない。何の代価もなく受け取ることができる、というその事だけで、すでに価値は下がっている。自分が注いできた時間と労力と、作品そのものが持つ価値を、無料という手段で明け渡したくないということが大きい。

 今までの作品三つを無料にして公開しているのは、自分というものを知ってもらうためだ。書店では裏表紙の内容紹介があったり、本を手に取ってパラパラとめくってみるということができるわけだから、まったく何も分からないまま、購入してもらうのはフェアではない。

  

あなたは欲する、自分は提供する。できうるなら「いいもの」を提供したいと思う。そこに金銭が発生しているからには、受け入れて貰えるかどうかはさておき、創作者はできる限りの最善を尽くすべきであろう。それが責任だと思う。そんな宣言から、このブログをはじめようと思う。

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わたしはなにものでもない