日本近代文学について1

 日本文学、もうすこし具体的に言うと近代文学というものはどういうものか、と今更ながらはかりかねている自分がいて、すこし調べなおしているのだが、これが広すぎて、ちょっと動けない。

 近代文学というと、すぐに浮かぶのが森鴎外と夏目漱石という大きな二つの山である。文学史的に考えるなら、坪内逍遙や二葉亭四迷もそこには当然現れてくるはずだが、今もなお読み継がれている小説という意味で考えるなら(彼等が残っているのは国語の教科書に掲載されているということも大きいと思うが)、やはり日本の近代文学の影響は、鴎外と漱石という事になる。

 

 興味深いのは小説を書くという行為が、商売と自己表現との混ざり合いであるという点だろう。何が売れるのかは、その時代の嗜好にもよるのだろうが、小説はまず売り物であり、読者の要求や販売という視点は無視できない。その一方で、小説は作者の自己表現という芸術的な面も持つ。「文学」という言葉を使うとき、対象の小説は自己表現・芸術の方に意味が傾くだろう。文学研究というのは、その作品の中から何かしらの発見を見つけだすものだと自分は考えている。

 

 商売という面に目を向けるなら、どうしたら売れる小説が書けるのか、という本がたまに出回ることがある。

 キャラクターを設定し、ストーリーを組み立てて、売れる物語を作っていく。いかにして読者の興味を惹きつけるか?最初からトラブルを設定して興味を惹きつける。読者の予想をくつがえす設定があり、感動のフィナーレがある。小説のこういった方法は、やがて映画やマンガへと引き継がれていく。それはそれで一つの方法だし、それが面白かったらなら何も文句はないし、ベストセラーというのはそのような要素を含んだものが多い。

 そういった小説は消費される。小説は消費されることに間違いは無いのだけれども、同じ消費でも、そういった動的なドラマ仕立てのものとは違って、時代を超えて何かしら読者の心に爪痕を残すような、いわゆる静的な小説というものも存在するだろう。

 漱石の『こころ』のクライマックスは先生とKとお嬢さんの関係だが、あれは今の人間にも充分あてはめて読む事もできるし、通じるものもあるだろう。読む事ができれば谷崎の『細雪』だっていいし、太宰治の一連の短編はやはり今でも通用する。そういった時代を超えた作品、というものは、確かに何かしら魅力がある。

 「よい小説は登場人物がどう感じているのか、自分だけはこれはわかる、と思わせる」というようなことを吉本隆明がどこかで書いていた気がするが、その快楽はエンターテーメントとはまた違った方向の感動のように思える。

 

 和歌があり、俳句があり、詩があり、小説がある。静的なものの極致は俳句で、それは様々な意味をくみ取れる絵画のようだ。言葉の短い連なりを踏み台にして、受け手はそこから想像力を広げて観照する。

 その一方でドストエフスキーのような長編小説は、その言葉を連ねることで大きな体験をさせる。様々な出来事が起こる。登場人物を取り巻く状況も変化し、その広大な言葉の連なりを読者も体験する。言葉を連ねるほどに具体的になる。

 絶対的ではないが、文章量が減るほど一行に対するこちらの注意は増え、長くなるほどその意識は薄まると思う。短編を書くほど一行に対する含みは増え、うまく行った短編はその一行でさらに世界を広げる。かたや長編の一行一行に意味を含ませていては長い小説の推進力が失われてしまうこともあるので、長編の場合この緩急の付け方が必要になる。

 かつて「大衆文学」「純文学」と小説を区別していた時代があったが、その区別はどこでなされているのか?「純文学」のほうがより深く、芸術的である、という返事もあるかもしれないが、どうだろうか?

 まずはそういった区別には今は意味がない、というのが自分の結論だが、区別については読者に伝わる情報量の差ではないか、というのが自分の考えだ。

 良い小説は多面的な読みをこちらに提示してくれる。ストーリーを追うのが、第一段階だとしたら、登場人物のふとした一言が新しいストーリーの読解を提示してくれるのが第二段階で、さらには言葉の使い方、組み合わせ方なども味わうことができるのが第三段階、という感じか。

 エンターテーメント性の強い小説はこの第一段階、あるいは第二段階までのほうに力を注ぐ。面白いストーリーがあり、さらにサスペンスなどだと、意外な結末に持っていくための伏線がある。

 かたやその語り口まで意識をすると「純文学」の比重が重くなる。作家の「声」とでも呼ぶべき語り口はそれだけで世界を作り上げることもある。中にはこの語り口だけの方に比重を置き、作品を作り上げるものもある。泉鏡花の「雛がたり」などがすぐに連想される。

 

 もう少しだけ深めてみよう。

 さっき自分は「ストーリーを追う」のが第一段階だとした。しかしそれとはまた別の潮流で「観察する」エンターテイメントもある。

 少し時間があったときに自分は江戸時代の文学史をかるく調べてみたことがあった。もちろん江戸時代までの文学作品を全部読んでいるわけではないけれども、近代以前に書かれた小説は世相批判だったり、町人の生活だったり、あるいは翻訳の物語でもいいが、そこには作家は、風俗を観察したり、語ったりすることはあっても、作家自身の姿は全面には出てこないと自分は理解している。

 悲劇がある。芸妓と若者の恋愛悲劇はある。あるいは敵討ち。あるいは親不孝の事件がある。作者の視線は常に外に向かっていても、作家が自分自身というものに注目し、自己の内面を描くということはほぼなかったのではないか。

「個人主義」という言葉が明治になって出てくるだろうが「わたし」という存在がクローズアップされたのが実に明治時代だった。それは西洋からもたらされた概念だったが、作家の視線はそこから自己の内面に向かうのだろう。作家(というか、文学史の大きな流れというか、生き残った小説の流れというか)は自己の内面に光を当てるようになる。

 そうなると作者の個性が鼻につく。自分が日本文学を好きになれなかったのは、その作者の体臭だった。わざわざ作者の内面の声に耳を傾ける必要があるのか?あなたの声に、あなたの感情に同感するほどの価値があなたにはあるのか?

 

 何かを掴もうとして、どうにも歯切れの悪い言葉が続いている気がする。さっきからずっと粘土をこねくり回しているような。

 できれば次はもう少しまとめて提示できるようにしたい。

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