竹西寛子の文体
竹西寛子の文章が好きで、たまに思い出しては襟を正すようにして読んでいる。それが自分の書く文章に影響しているとか、何かをそこから学ぶためではない。たんに好きなのだ。いつのまにかこんな文章を書ける人間が稀少になってしまった。
「話すように書く」というのは、言文一致とかの難しい概念を出さずとも、文体の一つとして巷に溢れている。マニュアル本でも、若い人向けの小説でもいいし、ネット記事の文体だってそうだ。若干専門的になるのは報告書とか、法律の用語の類か。いずれにせよ、注目されがちなのはこういった日常の言葉で「何を」語るか、という点である。この場合比重は「何を」という内容の方に重きが占められる。伝わらなければ意味がないから。
いま自分が「小説」と呼ばれるものの構造を考えるに、そこに小説が他の文章と違う点があるように思う。
人間を精神と肉体、のように分けるのは、やや自分には乱暴に思えるけれども、小説も同じように「どのように」と「何を」の二つの面で考えることができるのではないか、と思う。むろんこれはきれいに分別できるものではなく、グラデーションのようにそれぞれの濃淡があって混じり合ったものが小説であろうが。
川端康成でも三島由紀夫でも、中上健次でも、野坂昭如でもいい。作家には独自の声を持つ者がいる。彼等の書き方は独特でちょっと読むと真似をしたくなる魅力に満ちている。だが、その文体それ自体が「何を」にあたるストーリーを動かしていく、という面があると思う。言葉の連なりは作品のムードというか空気を生み出し、それが物語を推進していく。
もちろん、その逆で「どのように」という面をなるべく希薄にして、ストーリーのほうに比重を置く方法もある。自分は正直言って推理小説が余り得意ではなく、ほとんど読んだ事はないが、アガサクリスティのような推理小説の文体であまりにもムードを作りすぎると、本来の目的である、推理しながら読むことが邪魔されてしまうのかもしれない。まあ、このあたりはやはりグラデーションの加減で、語り口が魅力的なまま謎を提示して推理していく小説もきっとあるに違いない。
竹西寛子の文体は「紡ぐ」という言葉がよく似合う。
そこからは人が生活するとはこうあるべき、という姿勢が透けて見えるし、人同士の細やかな感情を捉えた関係性が文体から透けている。その丁寧な言葉の運び方からは、物語を進める推進力だけではなく、色々なものが読み取れる。簡単に言うと「滋味がある」のだ。
残念ながら翻訳でそこまでの妙味を出すのは難しいかもしれない。知る限り、藤本和子さんのリチャードブローディガンの翻訳など、かなり近いところを抑えてくれるような気もするのだが、そもそも自分は日本語レベルのところまで英語はわからないので、ストーリーは翻訳できても、言葉選びという文体の奥に潜む何かまで、その翻訳された語句がつかんでいるかどうかは読めない。
そういうわけで、日本人であることを味わいながら、一つの文から、自分の記憶や、感情を響かせるようにして竹西寛子の小説を楽しんでいる。
人気のない博物館に足を踏み入れると、とても鮮やかで、しかし控えめでもある着物が飾ってある。一つ一つどこにも手を抜くことなく布を紡いでいる。
それをいま引用してみようかと思ったが、一部分だけ抜き出してもダメなのだ。
一度、短編集を手にとってみればいい。流し読みしてストーリーを追うのではなく、ゆっくりと言葉の連なりが織りなす風景や感情を読んでみればいい。