退屈について

 土曜日の午後の仕事帰りに、カフェに寄る。ソファに座って他の客を眺めてみるとみなスマートフォンを手に画面を見つめている。向かい合った男女の間に、それぞれの画面が光っている。窓際の若い女性は微笑みながら、指を動かしてメッセージを入力している。 

 携帯電話が現れた頃は、声だけがそのつながりのツールだったものが、やがてメールの機能が導入されると、文章も取り込まれるようになった。基本的には一対一のやりとりのその仕組みが、さらに変化するのは携帯電話がインターネットにつながるようになってからだ。手の平の上から、ネットという広い世界に入れるようになった。

 そうなるともうそれは電話という名称ではカバーしきれない。スマートフォンという言葉が現れた。

 つながり。そう、自分たちはスマートフォンを通じてつながっている。それはわたし達を情報にアクセスさせる。個人であれ、世界であれ、何かしらの刺激と即座に結びつき、提供する。その便利さは確かにすごいと思う。

 

 もしもスマートフォンがなかったらどうするだろう。

 何もない空白の時間を突然与えられたらどうする?

 その部屋にはただ自分だがいて、白い壁に囲まれている。壁は汚れのない美しい壁だが、内側から乳白色に発光している。だから全方位をこの壁に囲まれていても、部屋の様子はわかる。分かるがゆえにここには何もないことが一層はっきりする。もちろんその壁に何か書くためのペンもない。壁に爪を立てようにも、とっかかりを拒絶するように、柔らかな弾力性があり、優しく、明るく、その無の空間にあなたを包む。

 

どこかに向かいたい、何かを欲したいという欲望めいた感覚はある。生理的欲求でもあればそこに向かう事もできるのに、とそのとき自分の身体がないことに気付く。確かに視覚はある。壁は何の音も吸収してしまうが、たぶん聴覚もある。嗅覚はわからない。でも、世界に触れて感じるべきその受容体が自分にはない。簡単にいうと、意識だけが、この白い部屋の中にある。

そうなったとき、人はどうするだろうか?

どれぐらい我慢できるものなだろうか?

 

 「退屈」とは面白い概念だ。暇つぶしという言葉があるように、人は何もない空虚を持て余す。スマートフォンはその人の空白を埋めてくれる。なに、それは昔から同じだ。人は退屈を避けてきた。すでにパスカルの時代からそれは指摘されている。

 

  気を紛らわすことは、世間の人々には、それがないと惨めになるほど、必要なものである

                          パスカル 『パンセ』 断想139より

 

 人間の根本の精神はたかだか1000年や2000年では変化しないだろうから、結局人は昔から退屈が嫌なのだ。その「退屈から逃れる」という一点から様々なものがうまれた。

 芸術、しきたり、スポーツ、戦争、恋愛——。

 そうして、わたし達は、スマートフォンの明るい画面をのぞき込みながら、その退屈の子どもに身を任せる。

 

 思い出す光景があるが、たとえば自分の場合、何もすることのない日曜日の午後、父親がだらしなく寝そべりながら再放送の映画とかゴルフ中継を眺めている(「観る」ではない)のを、目にしたものだった。何かそれは傍で見ていて、非生産的な気がしたものだが、テレビが受動的な暇つぶしなら、携帯は能動的な退屈しのぎだ。何しろ自分が選択し、選んでいるという能動性もあるし、それは「どこかに向かっている」「有益な事をしている」という自己欺瞞にも使える。そのうちに最初に求めていた内容は忘れて、また新しい次の刺激が始まる。一つ一つ味わうのではなく、次々に移り変わっていく。インターネットにある情報提供あの終わりのなさ、というものは、次に、次に、と欲しがるわたし達の飢えた感覚に実に適合している。

 延々とそれは続き、やがて時間が来て人は携帯の画面を閉じる。しかしそれは、チャンネルを面白くなさそうに切り替え、放送終了まで延々と映し続けられる画面を前にやがて眠ってしまう父親と根本的なところでは何も変わっていないと思う。

 さて、その膨大なデータの海からわれわれは何を得るのか?ひたすら携帯電話を眺め続けて、そのあとで一体何が自分に残るのか? 

 たぶん退屈とは自分の中の欲望、能動性が向かう方向がわからなっている状態だと思う。欲すらも生まれない状態では(たとえば深い睡眠時とか)、わたし達は退屈しない。

 

 でも、本当を言うと退屈している暇などないはずなのだ。

 だっていつ死ぬかわからないし、こうしている間にもどんどん歳をとっていくし、やれることの可能性も減っていくに違いないのだ。ただそれを忘れている。本当に理解していない。

 人生の一回性を本当に意識することができれば、きっと退屈している暇などないのだ。

 いつ人は相手と別れるかもしれない、いつ自分自身が今の生活と離れてしまうかもしれない、今の状況だって永遠ではない。そのことに思いを馳せれば、きっと世界の見方は変わるだろう。意識は能動的に考えることに向かうだろう。

 恋人と手を繋いでいるとき、その内心で二人が別れる時を感じる。子どもを抱きしめながらその子どもが死んでしまった時を思う。悪趣味な想像だと感じるかもしれないが、どのような事であれ、わたし達の身の上に起こることには終わりが内包されている。どれだけごまかしても、それは真実だ。

 

 終わりを思う事はきっと悪いことではない。終わりがあるからこそ、今それを受け取っている瞬間の意味が違って見える。そのとき人は外部に求めていた欲望を別の方向に向けるだろう。少なくとも、目先ごまかしの娯楽には答えはない。

 たぶん、もっともっとわたし達は外ではなく、内、自分を見るべきなのだ。スマートフォンは便利だし楽しい。自分だって手放せないけれども、どこか外とのつながりを切って、内に通じる時間を作らないとたぶんあっという間に歳を取る。そうして死ぬ。

自分の残り時間なんて、壮大な宇宙の歴史から見ればあっという間なのだから、一回、「スマートフォン越しに得られる情報」ではなく、「スマートフォン越しに情報を得ようとしている自分」のほうを見てみたらどうだろうか。きっとこっちの方から発見することのほうが刺激的なのだ。

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