ピアノの音

 世界で最も美しいフォルムの楽器は?と聞かれたら自分の場合はギターを挙げるが、音色の点ではピアノの方が好きである。 

 

 とはいえ、そもそも自分が育った家には楽器を演奏する者は誰もいなかった。耳に入る音楽と言えば、母の運転する車の中で流れるポップミュージックぐらいで、クラシックもピアノの音も縁遠い少年時代だったのである。

 いや、自分が小学生の頃、ごく短いあいだ、母がショパンを聴き始めたことがあったか。

 なにがきっかけなのかは知らないが、母は風呂に入るときショパンのテープを再生した。そのときだけ「子犬のワルツ」や「革命ポロネーゼ」が家のなかで流れるのだが、いま思うとあれはあれで、何となくユーモアを感じる。母がクラシックを聴いたのは後にも先にもあれきりというのがいい。 

 ところで当時の自分にとってはショパンなぞまるで興味が湧かなかった。覚えにくいメロディーに繊細なピアノは、なにか精巧な砂糖菓子を思わせたが、それきりだった。小学校の同級生の中にはエレクトーン教室に通ったり、先生についてピアノを習いはじめたりするような者もいたが、子どもながらそれは自分の管轄外だと思っていたらしい。

 それが一転するのは十三歳になって、親にエレキギターを買ってもらってからだ。まったくありふれた話であるが。ギターの演奏を通じて、徐々に音楽の世界が開けていった。それは本と同じだった。調べれば調べるほど表現にはルーツがあり、それを辿れば辿るほどさらに広い音楽の世界へとつながり、わかることや気づく事が増えていくのだった。

 

 とはいえ、当時はそんなに体系だった聴き方ではなく、〈雑食〉という言葉の通り、ほとんど当てずっぽうに、自分の感受性の赴くままに聴いていた。本棚を見ればその人の性格が分かるというが、十八歳の自分の場合、CDラックにはビルエヴァンスがあり、デヴィッドボウイがあり、バッハがあり、筋肉少女帯の左右には、フォスター合唱曲とNOFXがある。つまりはごちゃごちゃだった。

 でも、それらの音楽に対して、自分の耳以外に、指で音を辿って理解できることは大きな強みだった。気に入ったフレーズがあると、自分はそれをギターでなぞってコピーしてみる。そうするとどのような構造なのか、理屈ではなく指の動きで分かる。バッハの「平均律クラーヴィア曲集」のフレーズを耳で聴いて真似してみた事もある。そこで学んだ動きを、自分は自作の曲に転用してみるのだった。

 実際にその世界に足を踏み入れることはやはり強いと思う。外から見ているのと、内側から見るのでは、得られるものの量が違う。

 

 さて、音の面から考えたとき、余韻が最も美しい楽器を自分はピアノ以外に知らない。

 先に述べたギターのこともあって、メロディーの美しさの方には気付いていたつもりだが、そもそも〈音自体〉としての繊細な美しさというものがあると気付いたのは、もうだいぶ大人になってからだ。

 それを教えてくれたのはラヴェルの「ハイドンの名によるメヌエット」だった。演奏はモニク・アースだが、色々と他の演奏家を聴いても、やはり最初に聴いたこの演奏が自分にとっての基礎になってしまっている。

 最初のシの短音がまず鳴り、それが消え入りそうになるところで次の音が来る。  

 そのとき最初のシの音がふっと空中に浮く感じがする。足元が崩れ、ふっと無重力になる感じ、というか。だから自分にとってはあの曲のはじまりは和音ではなく、短音がいい。何かそこに秘密があるような気がして、自分は最初の部分だけ繰り返し聴くという、ラヴェルが聴いたら怒りそうなことをたまにする。 

  

 音が鳴る。そしてそれは消える。響きを残して。演奏はその途切れていく音を、繋いでいく行為だ。一つの音から次の音へと。時には音は短音として、時にはそれは和音として。

 まるでそれは自分たちとおなじではないか。 

 たとえば友人達と朝方まで飲んだこと、誰かに無条件に愛されていたこと、完璧な一日だったと感じること、何かを達成したこと、恋人と初めて手をつないだときのこと。 特別なものでなくともいい。もしかしたらそれは苦しかったこともあるかもしれない。

 出来事から出来事へ、自分たちの身の上には様々なことが過ぎていく。

 そして音楽が美しいのはそれが一回きりだからだ。若いときには分からなかったが、自分が経て来たことはもう二度と起こることはないのだった。

 本当に当たり前のことなのに、わたしたちはそれをいともたやすく忘れてしまう。

 だから人は、過ぎ去った時間がもう一度やって来ると無邪気に期待を抱く。たとえば同窓会。人はあの場では社会的な身分を捨てて、クラスメートだった頃に戻ろうとする。そのようなルールで同窓会は動く。でも本当をいうとそれはかつての時間とは違うものでもある。そのことはその内部にいる本人達が一番よく分かっているはずだ。

   

 おそらくそれは〈ノスタルジア〉と呼ばれる感情に近いのだろうと思う。

それは物事が終わったあとの、手の届かない領域への追憶だ。もう今更手をふれることもできない、空中に浮かんだまま停止したその記憶を、人は時に恋い慕う。

 ミラン・クンデラも『存在の耐えられない軽さ』の中でこう言っているではないか。

 

  どうして消え去ろうとしているものを糾弾できようか、消え去ろうとしている夕焼けはあらゆるものをノスタルジアの光で照らすのである。ギロチンさえも。

 

 そうして、こうしている今も、ますますその記憶と自分とは乖離していく。しかしその余韻は、鳴っていた時よりも、すでにいまは存在しない、という点でより一層の魅力を持っている。

 自分はこんな想像をする。

 音は消えない。この世界で発生した一つの音波は、我々には感知できない程度にその振動を減少させてゆき、微細に、微細に振動を続けていく。それは完全なゼロには至ることない。0.9999999ーーのように、それは無限に小さな音波となって減少し続けるだけだ。

 感知できない我々がそれを消えたと勘違いして認識するだけだ。

 それは想像でしかないが、何かそれは宇宙につながるような美しさがある。世界は微少な音波の集積で包まれている。

 聞こえないが、ゼロではない。宇宙はその気配に満ちている。

 

 美しい音の抜け殻としての余韻。それは限りなく無に近いが、無ではない。

 たぶん、もっとも美しい音は沈黙に限りなく近い。

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