きっかけについて
ここのところ新しくパソコンを変えたばかりで、その設定に四苦八苦している。
管理しているHPのブログがある日突然投稿できなくなったのだった。それが先月ぐらいのことで、管理者に尋ねたところ、
「OSが古い」と身もふたもない返事だった。
何しろもう十年以上使っているパソコンなのである。ノートパソコンを使うほうが何かと便利なのも分かるのだが自分はデスクトップのパソコンが好きである。いかにも〈作業〉という感じで画面に向かって座るというスタイルが良い。とはいえ、別にそれはノートパソコンでも構わないわけだが。まあ、好きになるのに理由はいらない。
使っていたのはもう十年以上前のiMacである。
ちょうどボーナスも出た頃だったので、意気込んで店に向かったのが、そのままパソコンを持って帰れると思っていたのが甘かった。メモリだとか容量だと色だとか、自分の好みにカスタマイズすると、届くまで一ヶ月以上かかるというのである。
ウクライナとロシアの戦争が原因なのか、あるいは上海がコロナでロックダウンされているためなのか、そのあたりはよく分からないが、とにかく流通やら製造やらになにか問題があるらしい。とにかくしばらく時間がかかりますねー、と伸ばした髪の毛を頭上で束ねたいかつい風貌の店員がそう教えてくれた。
それにしても。
戦争で建物が破壊され人が死に続ける一面で、最新式のパソコンを買おうとしている者もいる。買えるのである。世界はそこまで一枚岩でできているわけではない。
この関係については、自分はそこまではっきりした結論は出ていない。ただ立場が逆なら海外の人もやはりパソコンを購入するだろうな、とは思う。それが当然だし、そういうものだろう。
もしもウクライナに直接の知り合いがいるとき、自分が高額の金を遣うことはどこかで良心が痛むかもしれない。知り合いは生きるか死ぬかの問題に直面しているのである。そうなればパソコンを買う金をいくらか寄付に廻そうと思うかもしれない。関係ない、と切り捨てるのもいけないだろうし、かといって過剰に共感してこちらで不自然な振る舞いをするのもおかしな話だ。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」
とは親鸞の言葉で、これは「自分だってどのような悪行為をするか自分では分からないよ、条件さえ揃えば、人を殺すことだってありうるよ」という意味だと思っているが、その逆もまた同じであろう。つまるところ、ただ業縁(条件)によって導かれる行為が存在する。
その理屈をより縮めていけば、今この瞬間の行為が、次の瞬間の行為につながり、それらはまた未来の行為の種となる。だから今の心もち・振る舞いを正していくのが良い、という仏教の見方につながってくるだろう。
しかし今日はその理屈を考えたいのではないのだ。
このところずっと長いめの長編に取りかかりながら考えていた事の一つに「悪」の問題がある。
そもそも「悪」とはなんなのか?
人を殺すとか、盗むとか、そういうことは単純に悪だと見なせる。それは確かなのだが、ではそれに向かう人間の心理とは?何がきっかけで人は悪に向かうのか。
はっきりと見えているわけではない。ただぼんやりとそれを書きたいと思う気持ちがあるだけである。いつもそうで、まず理屈ではなく、ふわふわしたイメージの感じがある。やがて言葉を連ねることで何となく形になってくるだろうという予感はあるが、きて、その上で思っていたものが掴めるかどうか、それも分からない。
きっかけもごくごく私的な体験だ。
以前、ちょっとした郊外の公園に立ち寄ったことがある。おいてある遊具も派手なものではない。石造りの滑り台とか、鉄棒とか、ごくごく普通のものだ。ただ管理が届いていない感じで、周囲の雑草は伸びているし、公園内には管理用のプレハブ小屋があるのだが、その窓ガラスは何かで叩かれたようにヒビが入っていた。その上からガムテープで止めてある。
その郊外の公園を書きたいと思った。みすぼらしいもの、汚れているものに惹かれる自分がいるのは分かっていたが、それを眺めながら何かある、と感じたのだ。こんな公園は嫌だな、と思うような。この公園を眺めながら育ったらどうなるのだろう、とか。
その風景や受け取った感じが、悪を書きたいというきっかけといえばきっかけである。
伝わりにくいのだが、これからしばらくいくつか短編を書いてみようと思っているから、いつかこの風景が出てくる作品と出会ったときは、これか、と思い出してください。