嫌な夏

 どうにも調子の悪い時期というものがある。そういうものをおくびにも出さずに生きていくのが大人かもしれないが、何かうまくいかないのだ。

 外側からというのでもない。内側から崩れていくような。

 嫌な夏だった。

 流れるべきものがうまく流れない。それが分かっていてもどうする事もできない。するべき仕事は数多くあり、その催促の連絡もある。メールフォルダを開けば

「あれはどうなっている?」と訊ねるメールがいくつもある。

 

 永井さん、先週お願いしていたおいたエクセルファイルの確認の件ですが、もう済んでいるでしょうか?一応確認のために伝えておくと、来週十三日にはもう皆で共有する必要があるので(というか、それを逃すともう間に合わない)、必ず今日明日のうちにデータを確認した上で、わたしIにお送り下さい。どうしても無理なら、Kさんに頼んで手伝ってもらうということもできるので、途中で構いませんから、とりかかっているデータを添付して、一度こちらに送ってくれませんか?この連絡も二度目になるので、とにかく、今の現状を含めて何か返信ください。

 

 相手は怒っている。明らかに。日頃温厚な人柄で通っているIさんがこういうメールを送ってくるのは珍しい、というかそれだけ物事は差し迫っているのだ。

 新型コロナの大規模感染拡大の影響で、ふたたび在宅での仕事が許されるようになった。その気になれば時間を気にせず、頼まれた仕事も済ませることができる、はずなのだが、今の自分にはそれらをうまく裁くだけの能力がないのだ。とてもではないが、パソコンを前にして落ち着いて仕事をしていられない。

 きっかけはささいな事だ。先週、自室のデスクトップの前に座っていたとき、ふと異臭がした。最初は足の裏かと思った。あぐらを掻きながら椅子に座ることがあったから。だが、少し甘いようなその嫌な臭いは足の裏からではないようだった。

 では、椅子か?

 椅子から降りてシートの方に鼻を近づけてみる。わずかに臭いらしきものが残っている気がした。アルコール除菌シートで拭き取ってみたが、それで臭いが取れたかどうかは分からない。

 その時はそれで忘れたつもりだった。普通に出社し、生活が続くはずだった。

 だが、家に帰って机を前にするともうダメだった。ふと気付けば臭いの方に意識が向いてしまう。この前、短編に取り掛かると書いたばかりなのに、臭いが気になって

あれこれと原因を探っているうちに、もう時間が過ぎてしまう。そうして気残りのまま家を出る時刻になる。だから帰ってすぐに自室の椅子の臭いを確認する癖がついた。

 思い出しても何が原因なのかわからない。二週間ほど前に雨に降られてスーツごと濡れたことがあった。あれかもしれない。もしかして社内で座っている椅子に雑菌が湧いているのかもしれない。

 クローゼットを開けてスーツのズボンに鼻を近づけるとたしかに臭いがあった。

 

 薬局であらゆる消臭グッズを揃えた。消臭スプレーもあれば、ファブリック専用のスプレーも、除菌シートも。嫌な読みは当たっていた。部署内の椅子も、通勤用の自転車のサドルも、およそ自分が尻をつける箇所全てにその臭いがあるのだ。

 人の目を盗んでやたらと椅子を拭こうとする自分を、社内の人間は不審に思ったようだった。気がつくと仕事の合間にスプレーをし、座面に鼻を近づけている。除菌をしたばかりの椅子の座面は少し粘ついて湿っていて、そこに座るのは嫌なのだけれども仕方ない。さすがに椅子に座らずに中腰でパソコンに向かうわけにはいかない。そうしている間も太ももの下で雑菌が湧いて臭いが広がっているような気がする。

 スプレーを吹きかけ、シートで拭く。その上からティッシュペーパーで拭き取る。

 それを試したときには、一瞬だけ臭いが消えるような気がする。だが、気づけば臭いはまた現れて自分の鼻をくすぐるのだ。これで終わりではない、というふうに。仕事の合間にふと左手で椅子のシートに手を入れている自分がいる。シートを撫でる。そうして自分の尻を撫でる。

 指先で確認すると臭いがある気がする。

 汗なのだろうか?それとも別のなにか?

 確かなことは、自分の鼻はたしかに何かを感知しているということだ。そしてそれはとても不愉快なものだ。この夏に。36度を超えるようなこんな不愉快な夏に。

 

「あなた異常よ」と妻は言った。「ずっと臭いばかり嗅いでるし」

「いや、でも本当に臭いが取れないんだよ。嗅いでみてよ」

 妻はなんともいえない表情をうかべる。彼女は少し老けたようだ。そうして明らかに自分を抑えながら丁寧に自分に言う。

「でも。そのスーツ、クリーニングにも出したのよ?汗抜きもして、防菌加工もしてもらったの。だからおしまい。もう臭いなんてない」

「安いチェーン店に頼んだから、こちらの希望がうまく伝わらなかったんだ。金払ってもまだ臭いがあるなんて」

 服を持っていったのは妻なので自分の返事に妻はムッとしたようだ。

「嗅いでみればわかるよ、ほら」

 と、自分はズボンを妻に近づけるが、彼女は嫌がって嗅ごうとしない。というか、自分を恐れているのだ。口には出さないが、この数日、在宅勤務が増えたことを彼女は歓迎していないようだった。家にいるといっても、自分が一日に何回も椅子に除菌スプレーをし、ズボンを替えているのを知って以来、彼女は自分とは距離を置くようになった。

 ズボンが臭うから変えるのだ。単純な話なのだが、一日に3回もズボンを替えるのは異常だという。脱いだそばから漂白剤を使って除菌し、洗濯を始める自分の行動は、彼女からすれば許容しかねるものらしい。

 でも、それも臭いからなのだ。自分はこれみよがしにズボンの股のところ、椅子の座面と接触するところに鼻を近づける。確かにクリーニングの済んだ乾燥した匂いはある。だが、その奥に悪臭が潜んでいる。

 

 今度こそ「ちゃんとした」クリーニング店に持っていくべきだと自分は言った。

 繊維の奥から、しっかりと、もとの菌を殺しておかないとだめなのだ。そうではないとまた菌が増えてしまう。自分の汗を食べてまた増えてしまう。だからそうならないようにズボンを替えて臭いのもとが残らないようにしているというのに、妻はわかっていない。

 妻はわかっていない!自分だってクリーニング店のタグを付けたままのズボンを別のクリーニング店に持っていくなんてことはしたくないのだ。料金もかかるし、何よりも馬鹿げている。

 でも、耐えられないのだ。椅子に座ると、何をどうしてもふっと臭いが鼻をかすめるあの不愉快な感じを。どれだけ身体を清潔に洗っても、その努力を裏切るように臭いが鼻をかすめることを。消臭スプレーの液体が手の平につき、それがかすかに粘つくのは本当に嫌だ。でも、仕方ないのだ。それが終わらないことには自分は仕事も、何も手につかないということを妻はわかっていないのだ。臭いさえ終われば、物事はスムーズに流れ出すに違いないのだ。

  

 それが先週のことだった。妻は出ていくという。

 自分はその時、中腰で机に向かいながらパソコンで作業をしていた。窓を開け、できるだけ太陽の光に椅子を直接当てることで除菌できる。太陽の光が雑菌を消してくれるはずだった。

 エクセルデータを整理し、まとめ、それが間違いないか確認する。皆の手当に関する申請用紙だから慎重に慎重を重ねなくてはいけないのだ。

 コロナはどんどん流行っていく。2022年8月の段階でまだまだ増えそうだ。自分はその少し前に小説を完成させて販売した。新しく書き始めている短編も進めたいが、何よりもその前に臭いなのだ。この臭いをなんとかしておきたい。

 その姿を見て異常だと妻は言った。

 でも、妻の言う通り椅子を交換する気にはなれないのだ。ハーマン・ミラーの椅子がどれだけするのか、妻は知らない。15万近くも払って自分はこの椅子を手に入れたのだ。認められようが、認められまいが、ともかくも文章を書くということを一生続けていこうと決めたとき買ったのだ。いまさら別の安いものにするつもりなどない。

 妻は出ていくという。夏のあいだ、しばらく実家に帰るというが、自分と一緒に暮らすことは難しいという。

「あなたは作家になりたかったのよね」と妻は言う。「だからわたしはあなたが何時間も部屋にこもるのも我慢してきたし、一人で放っておかれる時間も耐えてきた。いつかあなたが本を出せればいいと思ってるし、あなたの名前が文学賞の何次選考だったかに通ったとき嬉しかった。その雑誌は今も大切に持ってる」

「うん」

「それはいいの。HPも作って、少しは見てくれる人も増えたんでしょ」

「どうかな。少しは興味を持ってくれている人もいるいるようだけれども」と自分は口ごもる。そういう話題になるとどうにも恥じてしまう自分がいる。「でも、今の時代にそんなの本当にささやかなことだし……何もまだつながっていないし」

「でも、あなたは何か変わった」と妻は言う。「多分、臭いが問題じゃないんだと思う。本当に、あなたどうしたの?」

「どうもしない」と自分は言う。「でも、君は僕が変わったように見えるんだ」

「わたしたち、ちょっと時間があった方が良いと思う。どうすればいいか、とか。わたしもちょっと疲れてしまったから」

「向こうのお義父さんにはもう伝えてあるの?」

「少し帰るだけ、と言ってある」

 少し帰るだけの割に、妻が玄関に出しているのは大型のトランクだ。一緒にイタリアに海外旅行に行ったときに持っていった大型のものだ。

 玄関で自分は妻を見送った。

「じゃあね」と言って妻は出ていった。

 それが昨日のことだ。そして自分は日光浴の終えた椅子に座ってこれを書いている。

 

 永井さん永井さん、永井さん、もう期限は過ぎていますよ。早く返事をください。昨日は出社すると思ったのですが、来られなかったので話もできません。電話したのに気づいていますか?社内の携帯電話を確認してください。個人用の電話も掛けたのですが、そちらにも返信はありません。大丈夫ですか?

 

 大丈夫なのだろうか?

 

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