ひとを好きになるということ2
知人の女性の話だ。彼女は母親との関係に苦しんでいて、時々体調を壊した。過呼吸になったり、鬱々としたり、何よりも強い自己否定が彼女の中に巣食っていた。気持ちが行き詰まるとカッターで手を切った。水の中で手を切ると、腕から流れ出した血が水に滲んで妙にきれいに見える。それをぼうっと見ているのは悪い気持ちではない、と彼女はこっそりと教えてくれた。
彼女は誰とでも寝る、という話だったが、それが本当かどうか自分は知らない。自分と彼女はそういった関係ではなかったし、それを彼女に直接尋ねたこともない。ただ「男も何にも助けにならなかった」と呟いていたのは知っているから、そういうたぐいの事も過去にあったのかもしれない。
彼女は自己の不安定さを別のものに依存して、何とか内面を形作ろうとしていた。不安定なくせに、依存しようとする(自己に引き込もうとする)力が強いので、いつもそのバランスを崩してしまう。男性や友人に愛されようと近づくと、それは相手への圧力になったり、あるいは誤解されてレイプされそうになった。
そもそもの間違いは彼女は外のものをうまく取り込めさえすれば自分の問題は解決するとどこかで思っていたことだった。あれでもない、これでもない、とあれこれと求め続け、思い通りの結末にならないと、自分自身を内心で否定して傷ついた。
「普通の女性になりたい」というのと「死んでしまった方が楽になれる」というのが彼女の言葉だったが、人の呻吟する声は、それが本心であるがゆえに重いものだ。そしてそれは聞いているこちらにも、粘りつくようにじっとりと迫ってくる。
その当時の自分にできることといえば、ただ彼女の言葉に耳を傾けるぐらいだった。 重苦しい沈黙についに耐えられなくなった時、自分の口からもれる慰めの言葉は、本当に薄っぺらく、それはまったく彼女の心を変えることはできないのだった。
彼女が今どうしているのか、自分はもう知らない。
人生のある一時期、彼女は自分と少し触れあって、そうして消えた。
カート・ヴォネガットならきっとこう言うだろう。
そういうものだ、と。
程度の違いこそあれ、これは誰でもあり得る話だと思う。あれを願い、これを願い、我々は外の世界を取り込もうとする。もしもそれが好ましいものであれば、取り込もうとするとき、それは魅力的に輝くのだ。
新しい習い事、新しい恋、新しい音楽。知らないものは可能性に満ちていることは前にも書いた。
我々は刺激が好きだ。その刺激が自分を変え、時として形成してくれるように思う。
刺激を取り込もうとする生き物。それが我々だ。
人を好きになる。
それは「相手を手に入れる」能動的な行為なのか、それとも「相手に手に入れられる」受動的なものなのか。「好きになる」という言葉がすでにその答えを示している。自分自身の意志を抜いては、他人を好きになることはできない。
その前提として「我々は自分の意志することしかできない」ということを抑えておきたい。わたしの意に反して左手を上げることは不可能だ。相手の意のままに思考すること、欲することも同様に。(たとえば、相手に騙されたり、誘導されて、相手の望む行動をとったとしても、そこには「その行動をしようと欲しているわたし」がいなければそれは成立しえない)
相手を好きになる。それは言い換えると、目で、耳で、触覚で相手を欲し、自分に取り込みたいと「わたし」が願うことだ。相手の言葉を、身振りを、声を、好きになった相手に求める。能動的なその行為の主体は繰り返すがあくまでも自分だ。
たとえ相手から求められるという受動的なはじまりであったとしても、その相手を認識し、応えようと「わたしが欲する」時点で、すでにそこには自己の能動的な意識がある。
こちらから好きになるのか、それとも相手が好きになることを求め、それに応えるのか。どうあれあなたは、その相手を認識した。そして相手から取り込んだ情報は自分の中で記憶として処理され、場合によっては自分のなかで何度も繰り返される思考やイメージとなる。相手のことを想う、ようになる。
その行為は自己を変容させるだろう。相手の視線に敏感になったり、意識したり、新しい自己は相手を意識したものへと変化する。
(1)そのように相手を意識した地点で、もう戻りようがなく、あなたは変容する。
「わたし」というのは、刺激を与えてくれる外の世界と、内的な感覚が触れ合うときに生じるもの。シャボン玉の皮膜でもいいし、「わ」と「た」と「し」のひらがなが組み合った時に生じてくるもの、でもなんでもいいけれども、それは一時的な均衡の上に成り立っているものだ、という考えはまだ変わっていない。
その意味で、人を好きになるといっても、外的な刺激に、内的な感覚が反応している、という点では変わりない。実に数多くの人間と我々は接するが、違うのはそれを好ましいものとしてもっと得たいと、能動的に欲するかどうかということだ。
【質問】 いま好きな人と一緒にいると仮定したとき、あなたは相手に何を求める?
そう、やはり「求める」なのだ。他人の意識を生きられないがゆえに、どれだけ最愛の人間と一緒にいようとも、我々は求めずにはいられない。そして相手もまたそうであるのだから、我々は完全に一致することはできない。
それぞれがそれぞれ、相手から何かを得ようと引っ張り合っている。たとえ相手に与えるという行為であっても「与えたという行為」を欲している自分からは逃れられない。
我々を囲む条件はさらにややこしい。というのも、相手に求めると同時に我々は、常に外的な環境の影響も受けざるをえないのだ。それはつまり、「わたし」だと思っているものは常に変化し続けているということでもある。厳密に考えると昨日の恋人は今日は別人である。そもそも自己意識が一時的なものであるなら、それら違うものたちが通じ合えることなどあり得るのだろうか?おそらくは世界は誤解の総体で成り立っているのだろう。
精神の一致というと何か素晴らしいもののように思えるし、そういったものを小説で書くことはできないか、十年ほど前にムージルあたりを参考にして考えてみたこともあるのだが、おそらくそれは手の届かない妄想でしかない、というのが今の自分の結論である。
ごく簡単に考えると、仮にも相手と精神が一致したとすれば、すでにそれは認識することが不可能であろう。なにしろ違いがないのだから。我々は世界を違いによってしか認識できない。
生殖行為による出産が、唯一その方法として物質面での一致の例かもしれない。少なくともお互いの身体を構成する要素が混ざり合って、我々は誕生するのだ。しかし精神的な一致というのはやはり不可能であろう。
(2)我々はどこまでいっても「わたし」以外にはなれない。
いま考えているのは、前回書いたような恋のレベルではない。それ以前の段階、数多く触れあう他人のなかから特定の相手を認識し、自分の内部で何かしら変化が起こりつつある段階の「好き」だ。欲望、と言い換えても構わないかもしれない。
まずその段階の「好き」があり、やがて思春期を迎える頃に性的な欲望を含んだ「好き」が二層目のように現れる。そしてこちらの方は加齢とともにやがて薄れていくかもしれないが、ひとを好きになることはまだ残っているはずだ。それは相手を求めること。好ましい反応を自分の感覚へ獲得することだ。
してみると、人を好きになることにはたどり着くべきゴールがないということにならないか。我々自身が常に変化するものであるなら、それは同時に充足・完結することがないということになるだろうから。
「恋人」「結婚」などの言葉は、終わりのない「わたし」の欲望に、表面上は片をつけるためのものだろう。不完全ゆえに刺激を求めつづける自己の続ける欲望を、とりあえずの形で区切ってしまう一つの知恵だ。
しかしそれは制度でしかなく、最終的な結論としては万能ではない。
だから愛は不断の努力というのだ。
関係が一度成立すると、その上でなんとか合わせていこうと努力すること。しかしそれは、すでに知り合った当初に抱いていた感情とは、また違う質のものになっているはずだ。好きという種類が変わっている。相手から取り込む情報の種類が変わるのではないか。
(2)の前提は揺るがない。しかし(1)の方になにかしら考えのおさめどころがある気がする。変容した自分というもの自体が、その存在を保証するのである。