ひとを好きになるということ 1
誰か特定のひとのことを好きになる。
そのひととの距離を縮めたいと願う。
自分の思考はそのひとに向けざるを得なくなり、その相手の挙止動作が気になって仕方なくなる。相手のふるまいや視線に常に注意を向け、そこから過剰に意味を読み取ろうとする自分がいる。先ほど相手が傍に寄ってくれたのは、こちらに好意があるからではないか?意外なところに二人の共通点があった、これは運命かもしれないと思う……などなど。少しでもそのひとの情報を集めようとする。ちょっとしたやりとりが当人の意図以上に過剰に解釈される。
あるいはその逆も。
相手が自分以外の人と仲良く話しているのを見たときなど、余計なことを邪推して、ひどく取り乱す。
恋愛の初期状態はつまりはそういった通常ではない状態に陥ることから始まる。
もしかしたら手に入るかもしれないものに対して、こちらが過剰に感受すること。
手に入るかもしれない、という可能性はとても魅力的だ。その可能性が全くないと知ったときには簡単にあきらめがつくものが、目の前で可能性をちらつかされると、ひとはそれに心を奪われる。ゲームセンターにみられる、あのプッシャーゲーム。あるいはもっと単純に結果がどうなるのかまったく予想がつかない「釣り」や「賭け」というものは、巧妙にひとの欲望をくすぐる構造を持っている。
コケット(媚態)というものは「約束されない性的約束」と、これは確かクンデラが言っていた言葉のように思うのだが、不確定とはこれほどまでひとを魅了するものであり狂わせるものなのだ。通常の自分を足元から崩されてしまうこの経験は、同時に特別な高揚感と不安感をもたらす。だからこそ、先行きの見えない恋愛こそ「Crazy for you」なのであり「あなたに夢中」なのだろう。
しかし、相手に受け入れられるにせよ、運悪く拒否されるにせよ、この高揚し、不安定な段階はいつまでも続くことはない。とりわけ、相手に自分の想いが伝わらない場合よりも、むしろ受け入れられ、安定した時のほうが、この気持ちの維持が難しいというのも皮肉なものだが、その瞬間から互いの関係はまた別な段階に入る。
今自分が話しているのは〈恋愛〉と呼ばれることの話だ。その延長線上に性的な行為がある類の恋愛の話をしている。しかし好きになること、という言葉はもっと意味が広い。
そこには身体行為などなくても成立する感情があるはずだ。さらに言えば、たとえその相手がこの世界に存在しなくても、関係を結び続けることができるような、そんな気持ちのありかたがあるはずだと自分は信じている。
最初からゴールを提示するのは種明かしみたいだが、できればそこを目指して考えたいと思っている。それが本当に納得できたとき、我々の世界は変わる。世界はものの見方ひとつで変わることは確かであり、そんなにも我々は自分のこころに影響を受けて生きている。
だが、その話はまた後にするとして、今は思春期当たりから芽生えはじめるあの感情について考えてみたい。
自分の好意がもしも相手に受け入れられたとしたら、そこから相手と自分との関係が始まる。一定年齢以上の成熟した関係なら、親密な関係性の先には、肌の触れあいにはじまる性的な関係がまっている。
しかしなぜ性的な関係が我々に必要なのであろうか?相手が異性・同性と問わず、性的な快楽と恋愛がなぜくっつくのか。
相手と肌を重ねることは確かに魅力的な行為かもしれない。一方でそこには自己の快楽があり、また受け入れられているという安心を感じられる行為である。ただし、そのような状態になるには我々は無防備にならざるを得ない。普段自分が抱えている〈自分〉という意識を一時的に分解して、普段は絶対に他人に見せることのない姿をさらけ出すことで、「さらけ出した」というそのこと自体が、二人を近づける働きをする。これ以上に急速に関係を近づける方法を自分は知らない。関係をもった翌日、お互いは昨日までの関係から一歩進んだことを実感する。だから性的行為は、二人の関係性をはかるひとつの区切りになる。
しかし、思うのだがこれは絶対的なものではないのだ。
それは感情を近づけるといっても一時的な接着剤のようなものであり、また身体を使用する行為だからこそ、身体がダメになってしまえばそもそも成立が難しいことなのである。言い換えると使用期限があるのである。
注目しておきたいのは、性的なスキンシップは〈生殖〉という行為と重なっているということだ。我々もまた動物であるから、生殖という生命条件から逃れるわけにはいかない。男女の身体が重なった時、新しい生命が産まれることは逃れがたい条件である。その観点から見ると、男女の行為が結果的に気持ちを近づけるという働きを見せるのは、そのふたりを離れがたくすることで、これからやって来る出産と、赤ん坊の育成を効率よく育てさせるという生物としてのメリットが潜在的にあるからだろう。
結婚というとだいたいが二十代から三十代にかけての年齢が多いのか、その背景には出産の可能性があるからだろう。出産の可能性を考えて、そこから逆算している。無数の、それこそ無数の恋愛映画の主人公に若者が多いのもそのせいだろう。逆にみれば、人がいくつになっても出産でき、寿命もまた百歳を超えても支障なく社会生活を営めるようになったとき、結婚の年齢はもっとばらばらになるだろう。どうあれ、我々は自由意志で動いているようにみえても、与えられた条件にそれぞれ適応して生きているようだ。
しかし性的な面を伴う恋愛はいつか終わりを迎えるのだ。
我々は歳を取る。そして同時に環境も変わる。
年齢を重ねすぎたせいかもしれない(もうそういうことをする歳じゃないから)、あるいは死別、あるいは結婚して家庭におさまってしまい他の対象を必要としない、という可能性もある。子どもがいるから、相手に対して不安定になっている場合ではない、ということもあるだろう。
気付けば、いわゆる恋愛とはまったく縁遠くなっていた、と鏡を前にしてひとはどこかで気付くのかもしれない。それは自分の人生のなかでなにかを捨てる事でもある。しかしそれは確実にいつか来る。
イメージとしていつもノアの方舟を思うのだが、かつて好きになったひと、相思相愛になったひと、片思いに終わったひと、自分が感知しうる恋愛対象だった人たちも、また自分も、歳を取っていくのだ。若いころのような意味での魅力はなくなっていくだろう。我々の船はゆっくりと沈んでいく。そして次の世代、もっと若い人たちが、新しい海で船に乗り出し、あれやこれやの大騒ぎをくり広げた末に、また沈む。
シェイクスピアの「お気に召すまま」でこのような台詞がある。
All the world’s a stage,( この世は一つの舞台だ)
And all the men and women merely players:( すべての男も女も役者にすぎない)
They have their exits and their entrances;(みな舞台に登場しては、消えていく)
だから、老人になっても恋愛している、という言葉を自分は信じられない。我々の人生には限りがあり時期があり、何よりも恋愛には、自分ではどうにもならない相手の意志がその半分の手綱を握るのだ。簡単に言うと「もうモテない」ということ、その可能性はある。
恋愛という言葉で語ってはいるが、それはおそらく「自分がひとりでときめいている」ということの言い間違えだろう。もちろん何事にも例外はある。フランス大統領の奥さんは二十五歳上であるが。
最初に戻ろう。今まで話していたのは性的な行為を念頭に置いた恋愛感情だった。しかし「好き」という我々の感情はこの恋愛に限定されるわけではない。
「そのひととの距離を縮めたいと願う」と最初に書いたが、肉体的な行為が手早く距離を縮める効果があるというのは分かったが、では。それ以前にそもそも「距離を縮める」とは何なのだろうか。