ひとを好きになるということ 3
二十代の頃のいつの春だったか、厳密には覚えていないけれども、そのとき自分は実家に帰っていて近所を歩いていた。育ったのは田舎なので家の外に出ると、すぐそこは田んぼという環境である。日暮れ前の薄紫の空気は心地よく、家から少し歩いた川べりに腰掛けながら、自分は沈む前の日を眺めていた。
その当時付き合っていた恋人の事を、なんとはなしに考えていたとき、まったく予告もなくそれは来た。その彼女の中に、自分がそれ以前に知り合った女性達が皆いる、と不意に予感したのだった。たとえるならミルフィーユのようなもので、彼女の背景には様々な「女性」が積み重なっているというイメージが突然降りて来た。
我ながらそれをもてあますところがあって、だからこそずっと覚えている。
それは本当に彼女の後ろに様々な女性が存在しているというわけではなく、自分がどのように相手のことを感覚しているのか、ということだと今は結論つけている。普段は意識することはないが、自分が彼女を見るときに、過去触れあってきた「女性」というものを経て彼女を見ているということを、なぜかイメージで感じた、ということで、自分の中で一応の収まりはついた。
ひとの多層性ということ。
そもそも我々自身が記憶の堆積の上に成立している存在なのだ。もう何度も繰り返して言い続けていることだが「わたし」という存在を形成しているのは、外的世界に対するそのときの感覚である。が、その感覚の中には堆積する時間の層がある。
生まれてから今まで、我々は自分の中に様々な経験を蓄積し続けている。もちろん意識上には登る事のないものも数多くあるが、かといってそれが消えるわけではない。経験は記憶となり層を形成する。
誰にでもあるだろうが「それが何かは具体的には表出できないが、これは前に聞いた事がある、前に見たことがあるという感覚はある」という経験自体、我々の中の記憶が、どれだけ意識しないところで根強く残っているのか示しているはずだ。
ひとを好きになるということについて、ずっと考え続けているけれども、そのひとを好きになる・あるいはさらに進んでふれあうというような経験は、その方向で行けば、その当人の中に、他人を強い体験や記憶として取り込む体験、といえなくもない。同時にそれは新しく自分を形成しなおすということでもある。
特定の相手を欲望する。別個の二つの意識をつなげようとする構えをとる。
成長の段階でもそれぞれ違うだろうが、赤ん坊なら生存するために、若者なら生殖のために、老人ならわれ寂しさのためなど、他人を求めようとする姿勢をとる理由ならわざわざ探さずともいくらでもある。ひとによっては、それは他人に頼るのではなく、趣味とか、あるいは仕事とか、宗教であるのかもしれないが、そもそものひとの精神構造じたいが、自己を充足させようとするとき、視線を外に向けようとする傾向にある気がする。
しかし恋愛ということに内容を絞ると、おそらくどのような理想的な恋人と会っていたとしても、完全に満たされる瞬間などというのは、本当の意味では存在しえないのではないか?
欲していた相手を前にしながらも、やはり意識は何か別の相手を探している。これではない、という未消化のような感情は残る。あれほど欲していた相手が完全に自分の思い通りにはならないことに気付く。
〈愛されている〉という感覚は実に不安定なものだし、うけいれられない価値観や、それぞれのテンポのズレなどは、程度の度合いこそ違え必ず生じてしまう。
そもそも欲望すること自体が、自己が完全に充足していないということを示しているではないか。不完全(と自分を意識する)から、何かを求めようとするのだ。すでに持っていることが自明なものに対して我々は欲望を感じない。
何かを欲望する/取り込む、という行為は、自分とは別の価値観、別の何かを受け入れることである。それでも合わせようとするとき、ひとはおのれを変化させざるをえない。それはゴールのない変化であるが、そのこと自体に自分は価値を置きたい。
この世界を生きていてはっきりしたことは、ひとは別れるものであり、自己自身も含めてずっとおなじものはあり得ないということだった。結婚など人間が頭でつくりあげた制度ごときでは、この不変性は停めることはできない。
あなたと一緒にいる恋人は、明日にはもう別のひとを好きになっているかもしれない。あなた自身が次の瞬間別のひとを好きになっているかもしれない。
確かなものはない。その無常の流れのなかで、誰かを好きになる、特定の関係を結ぶ、ということは同時にそのひとを失うという事実も受け入れるということでもある。
そしてそのひとが消えたとき、我々の心には確かに穴が空く。自分の中のつながりの分だけ「なくなった」という不在が意識される。そのひととの交流が深く、長いほど、自分のなかで、そのひとは多くの層となって堆積している。
『100万回生きたねこ』という絵本がある。
「100万年も しなない ねこが いました」から始まるこの絵本は、死なない猫の物語である。死んでも猫はすぐに生き返る。それぞれの飼い主たちは、それぞれの事情で主人公の猫を殺してしまうのだが、猫は平気だ。猫はまた生き返るし、何よりも猫自体その飼い主達をまったく愛してもいないから、別れは猫にとって何でもないことである。
けれども、はじめて白いめす猫に出会ったとき、猫は自分以外のものを好きになる。やがて一緒に暮らしたその白いめす猫は歳をとって死んでしまう。猫は100万回泣き、やがて白い猫のとなりで、静かに動かなくなり、もう生き返ることはなくなる。
この絵本が子どもには理解されにくく、むしろ大人の心を動かすのは「なくなった」という不在が大きな要素だからだ。誰ともつながらなかったゆえに充足していた猫が、はじめて好きになった白猫を受け入れる。その時点で猫はもう自己完結した死なない猫ではなくなった。絵本を読む人間の生はさらに続くが、猫はこれで完結する。物語というものの力がそこにある。
我々もまた猫と同じである。他人を受け入れようとするとき、それは同時に他人の不在をも受け入れざるを得ない。
不在とは文字通り無くなってしまうだけではない。その関わりの中で作られた「自分自身の死」でもあると自分は分かった。
かけがえのない「そのひと」がいなくなったということは、「そのひと」に対して向けていたあなた自身の一部も失うということを意味する。
死んでしまった娘のためにもう服を選んでやることはできない。
別れてしまった恋人には、二人で共有していた楽しい話をすることはできない。
かかわりの中で我々は自己を形成し、その記憶は堆積する。他の相手ではうまく埋め合わせられないのは、かかわりの経験が、どうしても他のものでは一致することはないからだ。他の経験でそれを埋めようとしても、形にはおさまらないし、積み上げてきた経験自体が、埋め合わせを拒否する。
では、誰かが来て、誰かが去っていった。それがひとの生きる条件であるなら、そこに何も残らないのか?それ自体何の意味もなかったのか、というとそれは違うと自分は思う。
不在の痛みがあるということは、同時にそこに「在」があったという事実の証明になるだろう。今の「わたし」を成立させている一つの要素としてそれはあった。
しかし、もちろんその逆もまた「在」の証明となる。嫌な事。つらかったこと。トラウマと称されるような出来事もまた、自分を形成する一つの要素であり、ひとによってはそれがいつまでも消えずに苦しむものもいるだろう。
結局のところ経験が、過去が、いまの我々を形作っているのだ。その経験の堆積を、楽しい、苦しい、と判断付けるのは我々の主観でしかない。たとえば毎日が絶望的だと感じていた学生生活も、歳をとってから振り返れば輝かしいものに思えてしまう。いまの現状から見れば、情けないようなあの状況ですら、もう手に入らないものに満ちていたから。その視点はまた未来の自分が感じる視点でもある。
その出来事をどうとらえるか、どう解釈するかはこちらにかかっている。意味を付与するのはいつでも「今のわたし」である。
自分が経て来た体験や記憶を解釈し直すことは、同時に自分を作り直すことでもあろう。それは外面的にはまったく分からないことだからこそ、そのひと自身の内面の問題として、もしかしたら一生かけて意味づけていくのだろう。
「人生を味わう」という言葉があるが、その人生はひとりきりで形成されるものではない。他人から与えられて自分の中に堆積しているものたちだ。
その視点から見れば、恋愛は絶対的なものではない。それ自体は、強い動機が発生しやすいとしても、特定のなにかに心を向け、自分を形成する行為という要素のひとつでしかないということになる。
人生的というと何か小説や映画に出てくる劇的なものを連想するが、しかし劇的なものだけが人生的なのではない。 劇的なものが表面にはまったく見えぬ平々凡々な日常の苦労の連続、それが我々の生活である。しかし、「その人生(的)ならざる処や人生」であり、人生のふかい意味と神秘とがひそんでいるような気がしてならぬ。
遠藤周作 『生き上手 死に上手』より
若い頃は、これを読んで、なるほど、この背後に神があるのだな、と感じたが、今の自分にとっては、平凡な日常こそ、わたしを意味づける一番の要素だと感じる。何も大きな出来事ばかりが自己を作るのではない。それは確かに影響を与えるかもしれないが、意識にすらのぼらないほど深い所に沈殿している生活の重みこそが、実は一番根深い要素ではないか。
わたしとは、いまあるわたしの姿だった。
その背景には様々な体験が積み重なっている。その姿はそれと認めて、さてその次の地平線に何が見えるのか。
すくなくとも視点、すべてのものは無常であるということをうちに抱えて生きることは、それだけで価値のあることだと思う。恋愛は恋愛ですぎていくものである、喜びも悲しみもまた同様に。会いながら、そのひとともう逢えなくなっている可能性をどこか胸に秘めながら逢う。それは皮肉ではない、自棄でもない、悲しみでもない、ただあるべき姿としてそうとらえる。
だとしたら、ひとの出会いの意味は、その時にではなく、もうそのひとがいなくなってから見えてくるものなのかもしれない。あなたがいたことがわたしを変えた、という事実は揺るがせられない。今の自己を成立させる要因として、あなたがいた。それはまた価値である。しかし、それもまたすぎていくものである。
さて、その先に見えるものは?