漱石の寂しさ3
前回で、近代の構造という言葉を使いながら、自分は近代という時代の特徴として、漠然とした目標を設定することで、それに向かおうとする苦しさがあることを書いた。その目標がある限り成功と失敗という価値が生じ、自己否定がそこから始まる。
しかしそれは近代に限った話ではなく、人間自体が持つ宿命とでも言えるようなものだと自分は感じている。人間が持つ絶対的な孤独やら、他と比べることで自己に価値観を課してしまう面やら、近代とは、もともと人間が持っていたこれらの要素を鮮明化させただけに過ぎない。
山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。『草枕』夏目漱石
おそらく漱石自身もこの問題に対して決定的な結論が出ていたわけではあるまい。しかしタチが悪いのはこの住みにくさの原因は「人の世」と言いつつも、過分に自己も含んでいる点にあるのである。
我々は自分の周りの世界を自分の見たいようにしか見ていない、と言うと、いささか断定的かもしれないが、人間である限り世界を主観的にしか捉えられない。他人がどのように世界を感受しているか本当はわかり得ないし、ましてや他人と世界が一致することはない。
目・鼻・耳・肌などの自分の感覚を通じて世界を認識し、それを脳が捉え、処理する。それが自分の世界である。が、ゆえにそこには決定的な他との断絶がある。わたしの脳はあなたの脳ではない。それは交換不可能なものだ。
言語の発明は、そのわかりあえない他人との架け橋でもあった。
しかし言語の働きはそれだけにはとどまらなかった。他人と自分を結びつける働きをしながら、その一方で自分をより明確に型どってしまう。他と自分は溶け合うことなく、むしろそれぞれが孤立するのだ。それは言語が世界を分節化する働きによる。
四輪駆動するモノをすべて「クルマ/ブーブー」と認識していた幼児は「赤いクルマ」「青いクルマ」と色の概念(言葉)の経験により、さらに細分化して世界を認識するようになる。やがて「パトカー」「タンクローリー車」「救急車」と色と形状を理解したとき、より精緻に世界を認識する。「分節化」と言ったのはそのことだ。
そして精緻化の程度の差こそあれ、そういった言葉を用いながら世界とはこういうものだ、と自己認識し直すのがひとである。言葉を用いているという程度の違いこそあれ、それは他人と脳が交換できないのと結局は同じ構造である。わたしの言葉はあなたの言葉にはなり得ない。
脳による個々の世界認識が、言葉という個々の膜でコーティングされているようなものか。
したがって「イライラする」と口に出し、実際に本人もそう感じているなら、そのひとの世界は、きっとその言葉に沿ったものだろう。心穏やかになる音楽、優しい言葉遣い、相手を気遣う振る舞い、など、簡単に言うと我々が用いている「ムード」という概念は、その意味でふだん意識するよりも大きな影響力を持っていのだと思う。
ひるがえって漱石に戻ると「住みにくい人の世」にしているのは漱石だということになる。喉が渇ききった人間に水を与えれば、その水は水道水であれ至福の味になるだろう。病気になって動けなくなった人間が、退院して外の世界を見るとき、何気ない世界でもきっと輝いて見えるだろう。結局それは自己が抱える問題なのだ。
となればこの問題はこのようにも言い換えることができるだろう。
「どうすれば、我々個人はもっと満足できるのか?幸せになれるのか?」
外面的な条件だけ見れば、東京帝国大学教授である夏目金之助は申し分のない人生である。仕事と家族に恵まれ、留学も果たしている。そして嫌な教職を逃れることもでき、作家として大成している。
その漱石は何が苦しいのだろうか?己が苦しいのである。世界と対峙するときに自分が感じる感覚が苦しさのもとなのである。
『草枕』で漱石は「非人情」という言葉を用いて、自己の感覚から逃れようとした。人情があるからこの世界の摩擦に苦しむのである。それなら世界の摩擦に直面しながらも苦しまないだけの人情を持てばよい。あるいは人情など捨てればよい。
『門』でも出てくるが、漱石が禅宗に共感を覚えるのは、この心の反応を限りなくゼロに近づけるところに答えを見出しているように見える。いわゆる「修禅寺の大患」と呼ばれる大量の下血を経て、一度死にかかった漱石が(「思い出すことなど」で漱石自身が書いているが、漱石は三十分ほど意識もないかなり危篤な状況に陥った)辿り着こうとしたと言われる「則天去私」も同じ方向のことを示していると思う。
となれば外的事情はともかく、内的な「わたし」だけなんとかなれば我々は幸せになれるのだろうか?
しかしその「わたし」はなんとまあ、と嘆息してしまうが、まったく独立して存在し得ないのである。ここに深い苦しみの根がある。
そもそも産まれた時から、われわれは他人によって与えられる存在であり、言葉も、振る舞いも、それに従って世界をどう把握するのか、という視点も、そのベースは自分ではない第三者に頼らざるを得ないのである。
ひとが生まれて成長するにあたって保護者を必要とする存在であるという事実は何か意味を持っているように思う。例えばバッタでも、カマキリでも生まれさえすれば親を必要とはしない生物がいる。言い換えるとすでに生まれたときから完成している。
だが、生き物は、例えば哺乳類などがそうだろうが、その進化の過程において保護者を必要とするようになっている。親とのつながりが生物の生存戦略の上でなにかメリットがあるからそう進化したのだろうとは予想できる。
まず親を必要としない生物は生まれてすぐ外部環境に適応して生きざるを得ないが(当然ながら身体はまだ未熟なので外敵に襲われる可能性は圧倒的に高い。だから大量に産み、そのごく一部が生き残るという生存戦略を取る)、成長において親との時間がある生物の場合、親に乳をもらったり、一緒に過ごすことで未熟な身体を守ってもらえるメリットがある。また生き方のパターンを親を手本にして覚えることもできる。エサのとり方や敵からの逃げ方など、先達者がいることで経験は下の世代に引き継がれ、多量に子どもを産まずとも、その個体が生き延びる可能性が高める。
ごく単純に言うと「量より質」というわけだ。
しかし、ひとの場合、自体はもっと複雑になる。シンプルにただ「外部環境の中で生きる」ということを目的にするだけならこの方法は効果的だろうが、ひとには脳がある。それは「わたし」と言い換えることもできるが、この外部環境に対応する反応が「わたし」の正体であろう。(だから睡眠時や全身麻酔で感覚が眠っているとき「わたし」はない)
その対応するという行動自体、生まれたてのままでは未完成である。それは親によってより高度になる必要がある。本能だけではなく外から与えられるものがないと、環境に適応して行く力を持たないのだ。具体的に言うと「生きているだけ」では足りずに言葉を用いたりして、外の世界を把握し、自己を認識する必要が出てくる。それがひとを苦しめるし、下手をすると生命を内側から壊すことすらある。
なにかそれは手に入れたものと代償に、またそれに応じたデメリットも手に入れた、という感じがある。人間は脳を使ってより複雑な行動をすることで、他の生物たちに捕食され、殺されることは圧倒的に減ったが、その代償にそこまでの水準を保つためにも無理をせねばいけなくなる。
振る舞いを覚え、言葉を覚え、適応しておかないといけないのだ。しかもそれは自分で選び取ったわけではなく、自分の預かりしらない環境によって。自分が巻き込まれているゲームの存在は参加したあと知るしかないのである。
赤ん坊は赤ん坊だけで自立して成長し得ない。しかしすでに生まれ、外の世界を把握している時点で「世界とはこういうものだ」と覚えるだけの脳を持っている。漱石はその極端な例かもしれないが、すでに出生時に他人(という自分ではどうにもならない環境)に頼らざるを得ないという段階で、我々は苦しい。
自分はこれを「恐ろしい」と思ってしまうが、ひとが生まれるときには多分に「運」が左右するのだ。生まれることを自分で選ぶことができない限り、どのような環境のもとに発生し、どのような情報を与えられるのか、それは結果から逆算する「運」でしかない。完璧な環境など存在し得ないし、その意味で誰もが外部環境とのズレを感じている。それは苦しさを生む。
ではどうすればいいのか、正しい答えはまだ自分にはない。
ただ生まれた限り、ひとは「ズレ」を感じるのだろう。もしもズレを極力意識しない状態があるとすれば、それは母親の胎内にいるとき(それだって母親の状態が不安定であれば、赤ん坊も不安定を感じる気がするが)か、あるいは全くの無意識の状態かだろう。誕生以前か、誕生以後か。
しかしズレがあるということは、違いがあるわけで、そこには「こうあるべきである」という基準があるはずだ。しかしその元は実ははっきりわからないまま、認識だけが先走ってズレると感じているのが人間だと思う。ゴールはわからずとも、ただ不快な状態だけは分かるのだ。ひとが持つ寂しさ、苦しさの根本はそこにあるのではないか。
となればこの寂しさは影のようについて回るのだろう。それを断ち切るには、生自体を切り離さなくてはいけないが、それは自分の理想とする解決方法ではない。逆の視点から言うと「確かに寂しさは消えたが生も消えるではないか」といえる。かといって完璧な母親の胎生に戻るわけにもいかないし、娯楽やできあいの価値観を心底信じて生きていけるか、というと心底それを信じきれない自分もいる。
喜びは砂上の楼閣なのだ。やがては崩れすべてまた砂に戻るのだ。我々の生もまた同じである。