市井の人

「しせいのひと」と読むそうである。いや、読書しているうちにどこかで読み方は知った気はするのだが、意識して使うことはない。「特別な地位や財産を持たない一般庶民」という意味なのだろうが、まさに自分などはそれに当たるし、世の中の大半はこのカテゴリーに属するだろう。

 と言われるとなんだかそのまま納得してしまいそうだが、まあこの言葉自体にそこまで深い意図はないと思う。市井はあくまでも市井。王宮ではなく市内に暮らしている人間であり、下剋上が起こってそのひとが王権を取れば、そのひとは特別になる。市井とはその意味で一般というカテゴリーから逸脱しない/できない、とも言い換えられる。

 

 まあ、それはどうでもいいことであるが、古代から、ひとはかくまでも自己と他を区別してきた。自分とてもちろん例外ではない。友人の仕事がなんだか調子良さそうだったらおめでとうと言いながらも身につまされるし、なにか誤解があって誰かに嫌われていると感じたらやはり気持ちは落ち着かない。

 結局、我々は他と関わらざるを得ないのだから、外との関係の差異に敏感になるのはしかたないとも言える。基本的には外を通じて自己を認識するしかないのだ。それこそがまさに「社会生活」というやつで、そもそも「わたし」という存在自体、ある程度そういった他との関係を無視しては成立し得ないところがある。

 しかし、関係の差異が存在すること自体は問題はないのだろうけれども、ややこしいのはその差異の認識から時に「感情」が発生し、それがアチラコチラと人を動かすことである。

 以前読んだ本の中で、ある殺人犯が「自分の殺人の根本動機は結局嫉妬だった」と告白しているのを見たが、ふっと湧き上がった感情が大きな行為につながることは多々ある。あるいはその逆も。行為と感情がどこかでつながることがある。

 たとえば恋をすると、ひとは好意を寄せている相手の行動に敏感になる。

 今日彼女が右手の薬指に指輪をつけてきたのはどういう意味だったのか?なぜ彼女は週末早くに帰ったのだろうか?一緒に帰っている人はいるのだろうか?その逆で興味もない人間には、誰と食事に行こうが、誕生日に何をしていようが、まったく感知する気が起こらない。それは男性・女性も同じ現象だろう。

 

 だがすべての行動が感情によって成立しているわけではない。ここがミソである。我々は強い気持ちを持って顔を洗ったり、呼吸したりしないし(洗う人もいるかも知れないが)、逆に日々のルーティーンワークのように恋をする人もいないのではないか。感情を伴わない行動の集積のなかに、ふと感情が喚起される瞬間がある。

あるいはこうも考えられる。日常の行為からはみ出る行為をする瞬間がある。そのとき感情が喚起される。

 子どもが初めてできた行為に対して喜びを感じる。一人でジャンプできた、一人でスプーンを使えた。

 アルキメデスは水の中に王冠を沈め、そこから溢れ出た水の重さ元に王冠の重さを測ることができた。エウレカ!と彼は叫ぶ。そこには爆発的な喜びの感情がある。

 しかし喜びは一回きりのものなのだ。それらは常に次を求める。一方で行為はやがて繰り返しの中で無駄なく洗練された動作となって慣れていく。

 日常を通じて作り上げられる保守的な行動と、それから逸脱しようとする危険を伴う挑戦的な行動がある。螺旋のように、我々の行動は日常を経て脱却してゆき、どんどん進んでいくが、感情とはその逸脱の際に起こる火花のようなものかもしれない。

 そして最後には体が不自由になり、この螺旋はまた逆に進む。

 

 これは余談だけれども、自分は「ひとが対立なく、感情なく、それぞれの環境に従って粛々と役割を演じるように進行して人生を終えていく」のが理想社会である、と思わなくはない。感情を一切取っ払ってしまうのだ。そこに身体が不自由な人間がいれば、助けることができる人間が助ける。適性があると判断された人間はそれを伸ばし、それぞれの仕方で社会に貢献する。そしてその条件が揃わなくなれば潔くその役は終え、別の人に譲る。わたしだけが、とか不公平が、とか余計なことは言わない。

 プラトンが示す「哲人政治」に少し近いのではないか、と自負している。

 実に味気ないかもしれないが、基本的には大きな枠を逸脱することなくスムーズに社会は進行して行くだろう。無論、ここには国家間・人種間の違いなどない。そもそも好悪の感情すら消去されているのだから。こうなれば、いつか地球環境がどうやっても人類に適応できなくなくなるその日まで(いずれは太陽が膨張して地球を飲み込むのだろうから)人類はそこそこうまく続くことができるのではないだろうか。少なくとも戦争のような愚かしい行為は存在しない。戦争は大きな行為ではあるが、根本原因は先の殺人の例のようにやはり些細な感情だろうと思う。

 もっとも「役割を演じる」と書いたけれども、現実問題はどの行動が正しいのか先が見えないから我々は困るわけである。先程の理想社会は最初から答えがわかっている前提で、それを追うわけだからまあ夢の夢の話である。

 仮に人類が続くということを最終的な目標としたときこの社会は効果的かもしれないが、本当に種の存続が正しいゴールなのか、それに答えられる者もいないだろう。

そもそも何が正しく何がゴールなのかを検証することすらできないのだ。残念なことに人は二回、同じ時間を生きられない。

 人類の悲しいところは、人類全体がどこに向かうべきなのかその答えが見えていないことかもしれない。その「答え」というものを人類は歴史上、提供しようとしてきた。それが「神の意志」であり「理想国家」であり、短いスパンのものなら「戦争」であった。それらは我々に当面の目標をあたえてくれる。その前では個人の感情は薄れる。

 何が悲しいといって、その答えがいずれもずっと続く永遠のものではなかったということである。ひとの一生ぶんぐらいは騙し通せるかもしれないが、振り返るとそれが嘘だったとわかる。人生の最期で、自分が正しいと思っていた答えが嘘だったと分かるのは辛いのではないか。

 

 田山花袋の小説に『田舎教師』というものがある。

 どうも人生がぱっとしなかった主人公が、臨終の際に日本軍の勝利を想いながら死ぬシーンがあるが、あれは本当に哀れである。

 

 清三はもう十分に起き上がることができなかった。容体は日一日に悪くなった。昨日は便所からはうようにしてかろうじて床にはいった。でも、その枕もとには、国民新聞と東京朝日新聞とが置かれてあって、やせこけて骨立った手が時々それを取り上げて見る。
 遼陽の占領が始めて知れた時、かれは限りない喜びを顔にたたえて、

「母さん! 遼陽が取れた!」とさもさもうれしそうに言った。
 それからいろいろな話を母親にしてきかせた。二千何人という死傷者の話をもしてきかせた。戦争の話をする時は、病気などは忘れたようであった。        ( 田山花袋 『田舎教師』) 

 

 残念な話だが、清三がかくまで同一化して憧れる日本は清三のことなどちっとも思っていない。そもそも清三が憧れている日本という国家自体、誰かの頭の中で考えられた正体のないものであるから。

「神は死んだ」とニーチェは言い。共産主義は崩壊した。資本主義もきっと崩壊はせずとも、いまのままの形で永久に続いていくことはないだろう。そしてプラトンこのかた哲人国家はまだ来ない。

 

 そう考えてくると残酷ではあるがこういうことになる。

 人生に答え(目的)などない。

 王宮も市井もないのだ。本当は。

 答えなどその人個人が作り上げるしかないものであり、その人の内部で完結すべきものだろう。当然誰か他人から与えられるものでもない。そもそも人が生きることに正解も間違いもなく、答えなども必要ではないのかもしれない。本当に人生の答えというものがあり、それが生存に必要であるというのなら、哺乳類たちの進化の過程でできているはずだ。

 

 誰もが今日の日々を生き、おなじに見える毎日を過ごしているだろうが、ときおり思考が、自分の生き方を何かと比べようとする。それで喜んだり悲しんだりするのだろうが、多分その感情の揺れは自分が思うほど大事なものではない。

 では何が大事か?

 限られた有限の自分の命を「生きる」ことである。生存する、ではない。「生きる」のだ。それさえできていれば、もうあとのところは付け足しでいいのかもしれない。あなたの命はあなた以外になく、他の誰とも交換しようのないものである。

 このせっかく自分に与えられた命題を、誰か過去の人間のくだらない妄想にのっかかるのはもったいなくはないでしょうか?

 それなら考えるべきである。自分の頭で考える。見る。

「生きる」とき、かくもこの世は刺激に満ちている世界に変わる。

 

 

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