漱石の寂しさ2

  近代化を経た結果、ひとは確かに生活が便利にはなったが、それに付随してエゴイズムを持て余すようになった、というのが漱石の見る近代文明の一面であった。

 たとえば『行人』で漱石は一郎に「人間の不安は科学の発展から来る」と近代批判の言葉を述べさせている。しかし科学がなければひとに不安はないのか。もしもそれが近代に由来するものであるのなら、近代の終結とともに病は終わりを迎えるべきだろう。しかしポストモダンも過ぎ、すでに近代の文明から更に変化した我々からみても、誰もが不安なく過ごしているとは思えない。

 意地の悪い見方になるが、それでは科学が登場する以前は、ひとは理想郷に生きていたのか、と問われても、それは絶対にありえない。何もわざわざ文献を参照して探してみるまでもなく、日本に残る無数の仏像、寺社をみればひとは己の不安や希望を神々に託したことは言わずともわかる。

 そもそも漱石のいう「人間の不安」とは何か?

 例えば吉本隆明なら不安の根源を漱石の生い立ち自体に見る。

 

 漱石はいつでも根源的な不安をもっていた人ですが、その自分の根源的な不安が  どこからくるのかといたら、文明の発達に帰している部分があからさまに作品のなかに出てきます。しかし自分の根源的な不安は乳幼児期の不安だということについては、解明がそれほど行き届いていません。『夏目漱石を読む』吉本隆明

 

 吉本の説明は自分には腑に落ちるし、大変魅力的な漱石論である。

 ものすごく簡単にいうと、漱石の場合はパソコンでいうところのOSがすでに不安定だった、というようなものか。その上でシステムを構築するので、それは当然、安定しないし、ところどころでエラーが出る。

しかし漱石個人の乳幼児期からくる根源的な不安は、漱石個人に由来するものだから、本来的には他人は理解し得ないはずである。

家庭の問題、自分の問題など、例えば自分であるなら両親が高卒で働いたことがそうだった。両親の学歴というような話題になると(そんなものは滅多になかったが)、自分は話題を避けた。

 そんなものは別になんでもない、と今なら言える。でも、それが自分にとっては口に出せない問題だった。同じような境遇であっても、こんなものは問題でもないひとも多くいるだろう。

それは個人の問題で、当人が成長していくに従ってそれぞれが落ち着く方法で解決していくことなのだろう。(親のことを自分がいまここに書けるようになったように)

 しかしその個人的な体験を小説に託して書く人がいる。そしてこれが小説の良いところなのだろうが、個人的な体験は個を超えて人につながる。

 漱石の小説がいまなお人の心に訴え続ける力を持っているのは、吉本のいう「根源的な不安」が個人的な問題で収まらず、もっと深い人間全般の問題にまで触れ得ているからだろう。

結局は程度の差こそあれ、漱石の文章に心が動くのであれば、それは誰でも乳幼児期の不安を抱えていると言える。もちろん全ての人間が、とは言いきれなくとも、不安は人間の条件とまで広げてよいものだと自分は思う。

科学によって支えられた近代の社会システムという価値観は、人が条件的に抱えている問題をより鮮明化したに過ぎない。

古い話。

 テレビがブラウン管のアナログ時代からデジタルに移行したとき、自分の周囲にのぼったのは「画像が鮮明化されると女優の顔のシワやシミまで映ってしまう」という冗談だった。まあ、時代とともに忘れられる小さなエピソードではある。実際に観ているとそんなことは気にならないが、ブラウン管の時代よりも画像が鮮明になり、それだけ受け取れる情報量が増えた、というのは間違いないだろうと思う。

 基本的に時代が下るほど、より鮮明化・細分化していくというのがどうも文明の流れのようである。(だから後の時代の我々からみる古典はおおらかで力強く見える)

たとえばスマホは表向きシンプルだが、奥には体調管理のアプリやら、銀行口座の確認アプリやらより細分化し、複雑化して我々個人の趣味嗜好に沿おうとする複雑な構造がある。

 われわれの心理もまた同じようにこの細分化・鮮明化の流れをたどっていると思う。マルセル・デュシャンに始まりアートの役割は人間の新しい精神・価値発見を肯定する最前線を引き受け、文学・性的嗜好・食事嗜好・生き方などなど、それらは人間の数だけ細分化していく。

 例えばいま自分が好んで聴いているのは、Francisco Lópezという環境音楽家である。

 彼の作品「un titled #309」https://youtu.be/TK8aboYYP-M

 は、18分ほぼ無音である。静かな部屋でイヤフォンで聴いていると、かすかに空気の震えのようなざわめきが聞こえるが、自分はそれを愛している。ひと昔まえならこんなものを好むこと自体おかしなことになっていたろうが、それでも一定層この音楽を好んでいる人間はいる。絶対にいる。

 

 その流れを踏まえて文学を見ていくと、たぶんとてつもなく長くなるので、いまは大きな概論を示すだけにするが、坪内逍遥の『小説神髄』に始まり、日本近代文学が追求し続けてきた一面に「人間とは何か」という問題がある。ある意味で近代小説は人間という不可解な像をどれだけ言語で鮮明化できるか、その可能性を探る歴史であったとも言える。

 人間とは何か?

 その質問にはなかなか答えはでない。流れ続ける水を捕まえるようなもので、そこには人の心情やら、他者との関係やら、自然観やら社会制度やら、人間の活動にまつわるあらゆる事が描写できるようになるから。

 自然主義、写実主義、ロマン主義、反自然主義、それらはどれも人間の正体を照らそうとする言語の挑戦の歴史である。これで終わりという完全な回答や結論などどこにもないが、言葉でそれらを探究する。ちょうど細胞が原子になり、原子が電子になり、電子がさらに細分化していくように、それは終わりのない探求の底なし沼である。

 

 漱石は近代という新しい時代を見つめた。漱石の資質から見れば、近代は自分を駆り立てることこそすれ、心安らげるものではなかった。

 学問も、家族も、恋愛も、社会も、漱石からすれば完全な解答ではない。むしろそれは不安を余計に掻き立てるものであり、しかし求めざるを得なかった自己矛盾の原因である。

 『行人』の一郎とお直でも『こころ』の先生とお嬢さんでも、漱石は夫婦の間での完全な一致というような無責任な〈夢〉は描かない。(それを気持ちの一致といって良いかどうかは少し迷うが、男女が一致する例として漱石が示すのは、『夢十夜』の「第一夜」の終わり、百合の花が咲く時であろう。その時だけ、男の方向性と女の方向性が一致する。しかしそれすらも「夢」の中のことである)

男と女の食い違いのリアルさが自分にとっては漱石文学の魅力のひとつなのだが、夫婦はどちらが悪いというような話ではなく、それぞれがそれぞれの思惑をもち、それがために食い違いが生じてしまう。恋愛は解答にはならず、制度上結婚したといえども、それはまた余計に心を動揺させてしまう結果となる。

『行人』で示される男女の不安定な関係は、明治と、それに続く大正という時代限定の問題ではない。夫婦の気持ちのすれ違いは今でも全く存在している。

現在であれば、一郎とお直は、あっさり離婚するかもしれない。あるいはどちらかが内緒で外に恋人を作るとか、買い物や趣味でごまかしながら共同生活を続ける可能性もあるし、どこかで子供が生まれて、もう子供を中心とした生活になってしまうのかもしれない。休日のイオンモールに行けば無数の一郎とお直がいるだろう。

 結局のところ完全に一致しない我々という構造自体は何も変わりはないのだ。それは近代のみの病ではない。

 

 近代の病とはなんだったのか?

 自分は「自己に目標を課すこと」にみる。『行人』の一郎の場合なら「一致する・相手を理解できる」というような夢を抱くこととなるだろうか。『こころ』ならKは道に達しようとし、先生は「正直な道を歩む」という夢を描く。

 動かざるを得ない不幸と言うか、目標をもたねばならない不幸と言うか、日本は富国強兵という価値観を外から持たされ、それに応じようとした。近代はそこから始まる。

 価値観を持つという構造を簡単に言うなら「目標を設定し、それに対して行動する」ということである。目標、というものがある限り、そこには「成功と失敗」が自ずと生まれる。

 その価値観で動くからKは自分を否定し、先生も自分を否定せざるを得なくなるのだ。漱石が意識して書いたのかは分からないが「畢竟時勢遅れ」と自分のことを言いながら彼らはどちらも近代人の精神を有していた。本当の時勢遅れの人間は、おそらく道に達せまいが、自分のせいで友人が自殺しようが、自分が時勢遅れであろうが、そのことで自らを罰することはない。彼らからすれば、それらは単に変化であって失敗ではないから。

 近代の誤解はその目標が本当に正しいのか、本当に存在するのか、そこに疑いを挟まなかったことではないか? 富国強兵・脱亜入欧はいつになったら終わるのか?

 その明確なゴールもないままに、漠然とした方向性に向かって動き出してしまう、そのくせそれに達していないという認識だけは持っているのだ。なぜ、それを失敗といえるのか、その検証もしないまませっかちに結論をつけてしまうのだ。

 

 カズオ・イシグロが描くテーマのひとつに「自分たちが信じていた価値観が実は絶対ではなかった」というものがある。『日の名残り』にせよ『わたしを離さないで』にも、主人公たちは自分が信じていたものが正しくなかったことを知る。しかしすでにもう引き返せないところまで来ているのがイシグロの登場人物たちだ。

 偶然だろうが、これら二つのタイトルはすでに終わりゆくもの、離れて行こうとするものへの視点である。それらは去られていく・失敗する側に属する哀歌であろう。

 

 では、どのようにすればこの近代の構造から逃れられるのか。

 漱石はそれに対してどのように処しようと考えたのか。

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