わたしをみる「私」 について3 ~自己観察する「私」について

 わたしが手を上げる。そこにはその行為を取り巻く【条件】がある。ただしそれは常に変化し続けている。そのわたしの行為を認識する私がいる。

 手を上げる。手を上げよう、と意識する。その意識にしたがって手があがる。その一連のできごとを内部意識で認識している私とは何だ?

 

 ここでは自己を観察するという行為を考えてみたい。ただし、それ以前の前提として、自己観察する行為すら、やはり【条件】によって影響されるものである。たとえば完全に眠っているときには自己観察はできない。また、たとえば目の前にボールが飛んできたなどの本当に咄嗟の時にも動揺に自己観察はできない。自分を見るという行為もやはりそれが成立する【条件】下の行為である。つまり「観察する」という絶対的な行為はないのだが、すべての底に流れているこの【条件】という視点から考えてしまうと、すべて思考の対象にはできなくなる。いいかえると「底が抜ける」。

 そもそもすべてが関連によって成り立っているので、絶対的にこれというものは存在しえない。

 だからいま考えたいのは、その底は一応仮設しておき、その上で成立している「観察」という行為自身についてだ。

 

 観察しようと思えば、その観察者と対象が別々になっていないといけない。

 一度顔を上げて周囲を見て欲しい。そこには机や、窓や、建物や、壁や、空や、雲など様々なものが見えてくると思うが、ひとはそれらを色の違い、形の違い、匂いの違い、など感覚によってズレを感知し、区別している。完全に同一であればそこにはズレがないために、観察することすらできない。「対象化」ともいうようだが、主客の分離が必要となる。

 

 余談になるが、この考えは実のところ様々な事に応用できる。たとえば「死」についても。われわれが「死」そのものの状態になってしまったとき、おそらくそこには観察という行為は入りこむ余地はないだろう。完全に眠っているとき、眠るわたしを感知できないように。できるのはいつでも「死」ではない「生」の側からの観察のみである。

 あるいは「時間」についても。過去は今では「ない」から区別できるのである。おそらく過去・現在・未来の時間認識は、人間の中で同時に成立したものではない。幼児を見れば分かるが、彼等は現在(より初期は反応)から、次第に成長するにしたがって過去を認識し、やがて未来を知る。1歳ぐらいの幼児の場合、母親が少し離れて自分の視界から見えなくなると、すぐに母を求めて泣き出すことがある。「すぐに戻って来るからね」という言葉は幼児には通用しない。今離れていてもじきに母は戻ってくる、という過去の経験の蓄積や、そこから延長して「だから未来も戻って来るだろう」という認識を持ち得ないから。

 

 話を戻すと、このズレというのがひとの認識の手段らしい。

 では、先ほどの例。手を上げようと【条件】(くどいですけど)のもとで、意志をはじめとする何らかの働きかけがわたしの身体の中で起こった。しかし、それを認識できる、ということ自体が不思議である。

 どうして自分自身の行為を認識できるような仕組みになっているのか?

 

 自己分裂かもしれないと考えたことがあった。たとえば左脳の動作を右脳が観察するというように、自分の行為を二人の自分が見ている。何らかの刺激によって反応する自分を、観察する自分がいる。それがいつも「観察する自分/観察される自分」と二つだけということもこの脳がヒントではないかと思う根拠だった。

 しかし、両脳の働きであるのなら、それが別の反応を見せても良いはずだし、そうなると右左どちらかの脳の方に、観察されるべき普段の動きすべての比重がかかるはずだ。左の脳がひとの動き、生命維持を担当し、右の脳がそれを観察するというように。おそらく脳はそのような構造になっていない。

 さらにもう一つ。我々は「同時に」観察できない。手を上げる自分を意識するとき、意識する「私」は常に一人である。もしもひとの中に意識がもっとあるのなら、

【自己観察する自分A →  観察される自分の動き  ← 自己観察する自分B……C……D】と別方向から同時に観察することも可能だが、どうもそのような構造になっていない。

 

 つまり意識においては、思考は単線なのだ。

【意識A → 意識B → 意識C】とたぶんこのように変わる。

 便宜上A・Bと表記しているが、人格が変わるようにはっきりと変化するというのではなく、ある部分は引き継ぎながら、ある部分は変化するように、アメーバーの移動のように変化すると考えている。

 したがって通底する「わたし」などというものはないとも言えるし、この意識のアメーバーのなかで比較的変化の少ない部分を我々は「自分」だと錯覚しているとも言える。しかし、人間の細胞がほぼ三年ですべて入れ替わるように、意識もまた根本から変化しているのだろう。それが一気にではなく、部分部分で変化していくから気づきにくいだけだ。5歳の頃の自分と今の自分は、実のところまったくの別人であろう。

 さて、おそらくこの単線構造がひとの基本なので、自分の行動を見るときにも【意識→行為】という風に同じように考えてしまうのだろう。

 しかし、先のように単線構造なら、自己観察など不可能となるではないか。

 意識Aだったものが、意識Bに変わったとき、それらはそれこそ生と死のように意識ごと変化するはずだ。

 

 今の段階ではそこに時間が関係していると考えている。

 つまり「わたし」の行為を「私」が観察するとき、それは同時にではない。ごく短い時間の中で、過去の「わたし」の行為を振り返って見ている、と考えるのが妥当ではないか。(その時点ですでにその時の「わたし」とは別の「私」がいる)そもそも観察しようと思えばズレがないとできないはずなのである。

 

【意識A →(時間経過/ズレ) → 過去における意識Aを想起して観察する】

 

 したがって、厳密に考えるなら、自分の行為ですら脳の記憶機能を使いながら観察しているということになる。もしもまったく過去の記憶機能を欠如した人間がいるのであれば、彼は自分自身の行為すらも意識できないのかもしれない。

 

 では、この自己観察とは何なのか?ごく短い時間であれ、自分の行為を意識しなおすことは、自分の意識をある方向に変化させるのに役立つのではないか?

 お母さんが子どもに言う。

「あなた今どんな顔をして友達の悪口を言っているか分かってる?鏡を見てみなさい。嫌な顔しているわよ」

 自己を認識すること。そこに何らかの「善い生き方」のヒントがあるように思えるのだが、今の段階では考えはここまでである。

 

 たぶんだが、禅などでいう「悟り」という体験は何かを手に入れたり、何か特定の境地に辿りつく事ではない。それはおそらく不断の自己観察により、余計な感情やらを解体する作業だ。外に何かを求めるのではなく、内部にある余計なものを捨てる。

 イメージなのだが、意識のアメーバを〇に近づけていく。それは不断の観察によって成立する震え続ける〇なのだろう。 

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