「わたし」をみる「私」 について2 ~能動的行為の発生について~
ある行為が発生する。たとえば「立ち上がる」という行為。いまわたしが座っているこの椅子から立ち上がる。身体を前かがみにし、ふくらはぎに力を入れ、それから腰を持ち上げる。バランスを取りながら膝を伸ばし、頭を立てる。
これら一連の動作を、ひとは通常一つ一つ意識して行うわけではない。おそらく、「今から立つ」とわざわざ自分で言語化して意識するよりももっと早く、意識は身体に伝達されて、わたしたちは次の行動に移っている。
しかし、言語化せずとも「何か」があってそれが身体の筋肉に伝わって行為が発生したことは確実である。その「何か」がない時には我々は能動的には行為できない。たとえば完全に眠っているときや、全身麻酔を受けているときには、自分の行為はまったく関知しえないままだ。いつも眠りに入る前にひとは何もない「無」に入り、目覚めと共に世界に戻る。
そういうわけで、通常の行為には何かその行為を引き起こす意思があると考えられる。
つまり
B【立とうとする意志】 → C【立ち上がるという行為】
という直線的な図のように。そもそもBがなければCは存在しえないのだから、正しいと言えば正しい。
しかし、このように考えることは、危険ではないか。
ごく普通に考えて、Cの行為がBによってもたらされるのであれば、ではそのBの意志は何によってもたらされるのか、つまるところ「立とうとする意志を誘発するものは何か」という疑問につながる。仮にその答えを脳の働きに仮託してA【わたしの脳に電気信号が走った】としてみても、では、その電気信号を走らせるものは何なのか?とそれはどこまでもさかのぼることになってしまう。
問題はこの図が直線的なものであるということにあると思う。ビリヤードの球の軌跡のように、それらは直線的につながると考える時点でもう、これは詰んでしまう。
ではどう考えるべきか?ここに【条件】という考え方を入れてみたい。
そもそも「行為」はそれ単体で成立するものなのか?
たとえば先ほどのC【立ち上がるという行為】だが、足がなければ立ち上がれない。たとえば遊園地のフリーフォールのように背だけ固定された椅子に座る場合、そもそも立ち上がるべき床がないから、立ち上がることはできない。
何を馬鹿なことを、と思うかもしれないが、ここで言いたいのは、実際に行う能動的な行為の背景には、それを成立させる条件が関与しているということである。言い換えるとその条件が成立しない限り、行為は発生しない。行為は独立して存在しえない。
床から立ち上がる、それだけの行為をより詳しく見ると様々な要素が見えてくる。
● 立ち上がれるだけの肉体を有している
● 椅子があり、そもそもそこに座っているとの認識がある
● 立ち上がるべき床がある
たぶんこんなものは精緻に考えれば、まだまだ出すこともできるだろうが、これとて同じように無限に追及できるものなのだ。そもそも床が成立するにも条件が必要であり、椅子が成立するにはやはり条件が必要であり……とまたもや無限にとらわれる。
そうするとやはり行為とは独立したものとして考えることは難しい。
イメージで伝えるなら、それは無数の編み目というか、波の動きというか、それぞれすべてが関連しあって成立しているようなもののように見えるのだ。
無限の可能性の中から、何か特定の条件が重なったときに行為が成立するが、それはすぐにまた次の行為へと引き継がれてしまい、また次の何かの条件として作用する。
ここでさかのぼって意思に話を戻そう。
先ほど書いたB【立とうとする意志】。今考えると問題点はこれも独立したものだと見ることにあるのではないか。すべての物事が条件により成立しているのであれば、そもそも自分、という存在自体、その上に成立している意思自体、独立しえないものであろう。
そうなると「わたしはない」という事になり、「わたしが立とうと意志を働かせること自体がわたしだけの要素では成立し得ないということになる。この独立ではない様々な要素の絡みというかもつれを、少し前の作家は「混沌」と見ていた。そうしてそれを無意識の領域の問題として考えた。
その明示できない人間の無意識の行為については遠藤周作が『私が愛した小説』という本の中でいくつか例を取り上げている。ドストエフスキーでも、モーリヤックでも、作家は人の心の混沌をそのまま混沌として描こうとした、と。
しかし、自分は無意識に限らず、有意識(とでもいうのか?)もふくめて、つまり意識すべてが常に変化しつつある条件のもとで動いているというヴィジョンを持つ。混沌という言葉一つで解決するつもりはなく、くりかえしになるが、それらは無数の要素が網の目のように重なり合っている中でほんの僅かのあいだ形をとるのであろう。波が起こり、海面に雫が弾ける。その雫は一瞬だけ、例えば犬のような形を形成したとする。そのとき私たちは犬を見る。そこには波の力や天気の要素、観察する目の状態など細分化すればきりがないほどの要素が絡んでいる。
「わたし」の思考も行動も、実はその流れの中にあるものだ。それをものすごく単純化してみると直線的なものに見える。「わたし」とは流動化するものなのだ。
同じものごとでも、捉える人によってそれは変わる。ある出来事をAさんは幸せだと感じ、Bさんは不幸だと感じる。捉える人の状況によってそれは変わる。昨日のAさんはそれを幸せだと感じるが、今日のAさんは不幸だと感じる。
それらはみな条件が違うからだ。
では、その条件を特定の方向に向かわせることこそが、世界受容を変える方法ではないか。
世界を受け取る「わたし」とはどのような存在なのか?