役に立つ文章
先日、モデルナワクチンの二回目の職域接種を受けてきた。まだ先の分からないワクチン接種に懸念はないとは言えないけれども、どうあれ周囲は接種の方に流れているようだし、それに強いて突っかかる気はない。もしも今後ワクチン接種に関して何らかの深刻な副作用が起こることがあればそれを受け入れるだけという、諦念のような気持ちもある。
消極的選択、というべきか。大きな波に引き込まれて一緒に流れていくように人生の選択をすることがある。
もちろん自分が受けるからといって「受けない」という他人の選択を否定するつもりはない。将来的な妊娠の不安とか、それぞれが抱えている基礎疾患とか、個々の身体の問題とかを考えると、ワクチン接種が100%安心できる解答というわけでもないのだから。
どれが正しい/間違っている、というのではなく、結果がまだはっきりと見えていない今の段階では「受ける」人間と「受けない」人間の関係性をどこで調整していくか、ということになる。全員が同じ選択をすれば問題はないのだろうが、そもそも人は多様的な存在であるからして、皆が完全に合意をするという夢を見るより、それぞれの妥協点を考える方が現実的だろう。
自分の場合は、たまたま今自分を取り巻いている環境が接種に向いていたから、感染して他人に広めるよりは接種のほうを選んだわけである。これが正解というわけではない。先が見えないのは誰でも同じだ。
さて、接種した翌日にひどい熱が出た。大変だ大変だ、とは聞いていたが、接種後だいたい十一時間後あたりから、本当に39度近い発熱になり、ぼうっとしてしまった。もちろん仕事は休んだ。そもそも身体を動かすこと自体が億劫なのである。
そういうわけで朝から手に入れた一日。堂々と眠れる上にまとまった自分の時間がもてるのだから、本と読んだり音楽を聴いたりできるはずだ。
と、思い込んでいた自分は甘かった。
高熱の時は頭が働かないのである。なにかしら概念的なものを、頭のなかで組み合わせて考えることができない。睡眠と覚醒のあいまいな空間のなかで、ただ漠然としたイメージをなんともなく追いかけるぐらいだ。身体が熱いなか、自分はなぜか伽藍を組み立てる夢を見た。奈良の大仏さまがおられるあの建物である。大仏ではなく、建物の方である。
伽藍が、基礎の柱がーーと奈良時代の建築家でもないのに、何度もそればかり考えてしまう。あれはまったく意味もない夢だった。
高熱がさがってやや落ち着いてからは、布団を身体にくるみながら、壁に背を預けて、ただぼうっとしていた。ぼうっとできるのである。窓を開けて、外の風の音や誰かご近所さんが道を掃除する音を聞きながら、普段の自分ならまずしないことだろうが、うつろな眼で部屋の壁を見ていた。
熱は二日経ってやっと落ち着いたが、頭が働かなかった、ということがあらためて興味深く思えてきた。
発熱したのは身体に不調が起こったからである。
通常とは違うことが起こったために自分の身体に熱が出たのだが、あのとき自分は外の音や風を受容しながら何にも反応しなかった。できなかったと言ってもいいが。むしろ内部感覚の方の対処に忙しく、外の音や出来事にいちいち意味づけをすることができなかった、と言ったほうがいいかもしれない。
言いたいことは、それはつまり普段の自分ではなかったということだ。
そしてじつのところ「普段の自分」なんてもの自体が、おおきな勘違いの上に成り立っているものでしかなかった。思考もまた、身体に大きく影響されるのである。いや、思考すること自体が、身体行為なのだから当たり前のことなのだが。これは自分にとっては結構な驚きだった。
となれば年齢もまた身体に大きく影響するし、いつ病気になるかも分からない。考えているつもりでも、実はまったく考えていないのと同じだったということもあり得る。いまこんな風に言葉をつないでいられるのも、今たまたま何も問題がないからできることで、もっといえば事故の可能性ならいつでもある。人間無常。時間はないぞ。
そうだった、いつ死ぬかも分からないのが人間なのだった。
あたりまえでほんとうのことなのに、自分はそれをすぐに忘れる。
〈役に立つ文章〉を目指している。嘘ではない。本気である。
もっと言おう。
自分は「ほんとうのもの」が欲しいのだ。
小説という嘘を書きながら、その実、どこかでほんとうのものが欲しいと思っている。
生きているとやはり行き詰まるように見えることが起こるわけである。降りかかかった出来事にどうにもならなくなることは人に生まれた以上必ずある。わざわざヤフーニュースを見るまでもなく世界は、困難や問題に満ちている。
余命一ヶ月だと突然知らされた。
来年、会社が倒産することになった。
夫が隠れて浮気していた。突然離婚の話が持ち上がった。
信じていたはずの人が裏切った。
自分の子どもが見えないところで犯罪を犯していた。
なにも悪いことばかりではない。突然宝くじがあたることもあるだろうし、意中の相手が告白してくる事だってありうる。(それにしても幸福の形のバリエーションの少なさよ)
まとめると人間は常に変化の縁にたたされているというわけかもしれない。そして自分の意に沿わない変化を、われわれは「不幸」と呼ぶ。それを避けようとして占いやら風水やら信仰やらが生まれたのだろう。
根本に戻ろう。
しかし、どのような問題であれ、それを問題と感じるあなたがいるからには、今抱えているその問題を解決するのは自分しかないのだ。なぜなら、その重そうな問題を抱えている両手は、ほかならぬあなたの両手なのだから。あなたが指を切ったとき、痛いのはわたしではなく、あなたでしかありえないように。
その場限りの娯楽でごまかすこと、ムードに酔わせてごまかすこと、「なかったこと」にすること、全て無駄である。自分もそれを散々してきた。でも何も見つけられなかった。それが救いになる人ならそれでよいが、いつかきっとそれは嘘であることに気付く。そのとき、また別のものでごまかすこともできるかもしれないが、さんざん他のもので紛らわせた先に人が見るのは、膨大な時間を経たすえに何も手に入れられなかった自分の姿だろう。
解決するならひとつだ。
自分が変わる事である。
自分を囲む世界を眺め、その世界に関連している自分を眺め、自分の世界観を新しくアップデートし作り直すしかない。その上で生きる。世界は確かに心の反映なのだ。
ほんとうのことはきっと無駄な回り道を省いてくれる。
役に立つとはそういうことである。
それは同時に人が生きるということはどういうことなのかを〈自分で〉考えるための道筋を見せてくれるのではないだろうか。誰かの「答え」ではなく「方法」。
いまはネットで検索すれば「答え」らしきものはとりだせる。昨今、やはり知識の方がもてはやされ「答え」そのもののほうをありがたがる風潮が強いように感じるのだが、より大切なのはその「答え」を導くための「方法」だった、とやっと自分は分かった。その方法さえ一つ身につけていれば、他にも応用が利くのである。
「何を釣ったか」ではなく「どのように釣るか」それさえ覚えておけば何でも釣れる。
そうなると問題は、その「方法」をどうやって理解するか、という事になる。
諸行無常、たしかに。
一切皆苦、たしかに。
先人が残してくれた答えは、まったく正しい。それがほんとうに分かっているのなら、苦しみはきっと苦しみではなくなるはずなのだ。外側からではなく、内側から分解するように、腹の底から納得できるはずだ。
しかし、なぜそれを分かっていながら、それにしたがって生きられないのか。すぐにその事実を忘れてしまうのか。
知っていないからである。
本当のところは分かっていないからであろう。
知る?そう、大事なのは腹の底から知るのはどうすれば良いのか、ということであり、それはまだ自分にも分からないのがもどかしい。言葉でもってある程度突き詰めれば、ある程度の理解はできるかもしれないが、いつもそれは強度の自明さを伴っては自分のところに現れない。
そういうわけで、その周辺をうろうろしながら、分からない自分がいる。それを語るべき文体はまだ見えない。