よりそわないこと/ HPを立ち上げることについて
現在、どういった人が来てくれているのか分からないが、どうも自分のHPを見る限り、訪問者があるらしい。
そういうことは気にしないようにはしているし、普段は見ない。
が、気にもなる。気にならないと言ったら嘘になる。
その数、実に4名。素敵である。宣伝という行為を一切してない自分のことを発見してくれた希有な4名である。
自分がHPを立ち上げようと決めたのは、別のところでも書いているが、金儲けのためだけではない。かなり長いあいだ、自分はパソコンの画面に向かって物語を書き続けてきた。完成した作品はプリントアウトして、その後修正を経て、また直す。その行程を何回か繰り返してようやくひとつの作品ができあがる。
しかし時間をかけて作品を作り上げても、それはパソコンのデータにたまるだけだ。誰も知らない。誰も読まない。
街中の大型書店に行くと、ずらっと棚が並んで様々な本が並んでいる。その小説のコーナーの前に立ったとき、こんなに本があるというのに自分は……と何か呆然としたこともある。仕事もまだ正社員ではなく年度ごとの契約で働いていた三十歳あたりの頃だ。早く作品が認められたいのに、まったく誰からも声がかからない状況だった。
本当に才能があるなら編集者が放っておかないでしょう。それならどこか雑誌に応募してみたらどうでしょうか、と言う声も聞こえる。
そう、確かに応募してみた事もあるし、作品に注目してくれた編集者からアドバイスをもらったこともある。しかし向こうが気に入らなければ、それで終わりなのだ。創作するのはこちらだが、決定権は向こうにある。いくつかの話し合いと改稿を経て「どんどん悪くなっている」と電話の向こうで言われたときは本当にへこんだ。
とはいえ、これはちゃんと言っておきたいが、自作が絶対に正しい、と思っているわけではない。
編集者のアドバイスは確かに自分にとっては役に立ったし、そもそも自分が書いた原稿を赤いペンでびっしりと直してくれた彼の誠実さは、たぶん一生忘れない。向こうも本気で、この作品をどうにかしようと思ってくれていたのだ。惜しむらくはそれが日の目を見なかったということだけだ。
ちなみにその真っ赤な原稿はどこに行ったんだ?たぶん見直すのが怖くて捨ててしまったのか、実家のどこか、二度と日の当たらないところで、ひっそりとまだ息を潜めているのかもしれない。
問題は小説というものの視野の範囲にあると思う。
それがビジネスであるなら、買ってくれる客の反応を伺い、それに合わせることは正しい。ニーズがあって、それに応えるのが仕事の本来の姿だもの。誰も必要としないものを売ろうとしても、在庫処分になるのが普通だ。受け手と作り手、その二つが合わさることで成立するのだ。
ゲームブック、映画のノベライズ、ケータイ小説(あの横書きの文字に色のついた恋愛中心のもの)、ライトノベル、ミステリブーム、京都ブーム、その時代時代で流行ってきた小説がある。
それは数年のあいだ輝く華やかな波だ。その場所に力と興味とが集中して、受け手と作り手の相互作用で大きなブームができあがる。それは大きな盛り上がりを見せたのち、やがておさまり、そして次のブームへと流れていく。ここ数年前の実話怪談ブームの折は自分も楽しんでたくさん読んだ。
こういったものは短期的な視野の小説だと自分は考えている。(もちろんその中には、時代を超えて読まれる名作も出てくる)
そして小説が商売であるからには、やはり時代を無視できないのもわかる。そういった時代だとかブームだとかを蹴散らすぐらい、作品自体が力を持った作品が現れたら最高なのだろうが。(たとえばそれは平野啓一郎の『日蝕』がそうだったのではないか?)
しかし、ここが面白いことだが、書かれた小説は時代を超えて残る。ブームが終わり、あるいはそのブームの流れには乗らずとも、作品自体の力でじわっと広がっているものとかがそうだ。
たとえば自分が今読んでいる小池昌代さんの『感光生活』(ちくま文庫)は2007年発行の作品で、読んでいるこちらの感覚としては最近の作品のつもりだが、じつにもう15年近く前の作品なのだ。とはいえこれは保証しても良いが、15年前の作品でもまったく今に通じる感覚の名作である。
自分が新刊書よりも古本屋に行くことが多いのは、たぶん、そういった時代を超えて力を持つ作品が読みたいからだ。創作者の目線ではなく、単に本好きの読者として。そして図らずも自分はそういった読者の方に届けたい。届けざるを得ない。
簡単にいうと1年で消費されるものよりも、10年読み続けられるクオリティのものを届けたい、というわけだ。
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ああ、そうだよなあ、と読んでいて腑に落ちたことがある。 クロマニヨンズの甲本ヒロトが、何かのインタビューで「観客が何人だろうと別に問題はない」ということを答えていた。別にこれは客の存在を無視しているとか、アーティストが一番偉い、とかそういうのではなくて、一番価値を置いているものは演奏している今の瞬間であるということだろう。演奏するその瞬間が一番大事で、そこに余計なものがあっては全力が出せない。
全力を出していればもうそれでいい。届くところには届く。その信頼の上で成り立っている発言であると思う。
〈販売戦略〉という点からみれば、自分がしている行為はまったく逆行している。
一般にインターネットというものが広がりはじめて、早二十年ちょっと。
つながるつながる、と言われ続けたインターネットだが、そのつながりは膨大になりすぎて、その海の中からどう目立つかということが大事になった。ねえ、わたしに気付いて!というわけだ。
自分のようなHPでも、たまに業者からメールが来て、
「わたし達に任せてくれると、閲覧数は最高で220%の上昇を見込めます」とか案内が来るのだ。短期的なビジネス視点で見るのなら、注目度が上がるのは歓迎だろう。その案内メールを消去するとき、何かチャンスを潰してしまっているようで、小さくドキっとするのも確かだが。
注目されることは確かに大きな力である。
しかし、そのマスを対象にしたビジネスも、日本では今や飽和しつつある面もある。
書籍よりも音楽の動きの方がそのあたりに顕著にみられるが、〈みんな〉という巨大なマスを相手にして大きな利益を得る時代から、〈それが好きな人・特定の固定層〉からの利益でビジネスが成立する小型の時代へと変わりつつあるような気もする。
別にそちらに期待しているわけでもない。覚めた目だが、少数の利益の時代が終われば、たぶんまた形を変えてマスを対象にしたビジネスが現れるのだろう。
自分は大きなビジネスよりも、自分の作品や声を伝えることに力を注ぎたい。自分が書いているものが世間的にどれだけ価値があるのか、それは自分では分からないけれども、よいものであるなら通じるし、広がるはずだ。自分がこの世界に解き放った言葉の力を信じるしかない。
その4人にまず伝える。
武器は言葉と真実と、ネットを使ったこの場所だ。
それは挑戦でもある。
半分は商売だが、半分は絶対に違う。
わたしは、わたし自身よりも、言葉の持つ力を信じる。