北の理念

 三十歳を少し過ぎたあたりで、何回か単身で海外に行っていた時期がある。ネパール、トルコ、カタールな当時、仕事が正規雇用ではなかったこともあって、その気になれば二週間ほどはまとまった休みが取れた。それでその気になった。 

 旅行ガイドを片手に観光地を巡るというような旅行ではなかった。適当に街を歩いて、気が向けばそこに数日間滞在する。そうして街中を歩く。ネパールの宿でチェックアウトの時、自分の荷物の余りの少なさにドイツ人の観光客が驚いていたのを思い出す。なにしろ必要最低限のものだけリュックに詰めての旅行だった。荷物は飛行機の座席の上のコンパートメントに入れたらそれで終わりだった。

 日本の中にいて仕事やら人間関係やらに絡め取られてやきもきするよりも、もっと離れた場所に行けば何か見えてくるかもしれない。自分に馴染みのない環境のなかで過ごす事ができたら、きっとそれでよかったのだ。その当時、日々の仕事はなんとか続けることはできていたものの、先の見えない不安定な身分に、どこか行き詰まっているような、鬱屈したところがあった。鬱屈する要素だけならそれ以外にも充分にあった。 

 一度旅行に出てしまうともう海外に慣れてしまい、まとまった連休が来るたびに「ここではないどこか」という想いに動かされ、自分は海外旅行の手配のサイトを開いていた。往復のチケットさえ何とか手に入れたら安宿で充分なのだ。 

 

  そこはトルコの東の端。イスタンブールからさらに東に向かったエルズルムという街だった。すでに旅行して数日が経っていた。イスタンブールから長距離バスを乗り続け、やっと到着した先の公衆電話から、自分は母に国際電話をかけた。 

「とてもここは快適だ」と自分は母に言った。「誰も自分を知らないところだし、僕の言葉もまったく通じない。誰も僕を追いかけてこない」 

 異国に一人で旅行する息子を心配する母のことを考えて言ったのではなかった。そんな自虐的な物言いをしたのは、きっと母に対して甘えている気持ちがあったからだろう。でも、それがその当時の本音だった。 

 

 自分の言葉など通じないところで。 

 何かを感じるため。 

 ひとりきりのなかで、そのことをより直接的に感じるため。 

 

 いま、あのときの旅行の目的を言葉でとらえ直すなら、きっとこういうことになるだろう。 

 どの国に行こうが、その国の人たちの間に交じって自分は望み通りずっと一人だった。この町からあの町へ。全くの気まぐれと自由で、自分は異国をまわった。途中、事故に遭って死んでしまっても誰にも気づかれない。深夜、異国の安ホテルの一室で思い浮かべる「行方不明」という言葉の響きは、なにやら薄ら寒いものがあった。 

 

 旅行の中では、予想外の親切を受けたり、予想外の悪意や誤解を受けたりした。でも、それは自分の心のなかに大きく影響することはなかった。見慣れない人や見慣れない風景が自分のなかを通り過ぎていった。それだけだった。 

 自分は文化や違いの中から何かを学ぼうとしなかった。ただ移動し続けた。その国のなかで、何者でもない自分を感じようとした。 

 それらの短い旅の日々を通じて自分が分かったことは、結局のところどこに行こうが、人種が変わろうが、人が人の営みを続ける限り、やはりそこに寂しさはあるということだった。 

 

 これは論理ではなく、むしろ感覚に近い理解の仕方だった。 

 トルコのカルスという最東の町で、母親が子どもを背負って歩いていた。その女性に何気なく視線を向けていた自分の前を、野菜を積んだトラックが走っていった。母親は疲れた顔をしていた。夏だというのに、すでに秋のような寒さだった。その冷たい空気と鮮やかな夕陽のなかで、母親は路地を周り、集合住宅の中に消えた。それだけだ。でも、それを見た時、やはり寂しいものだ、と感じた。 

 あるいはネパールのカトマンズで。朝方の光のなかで、小さな女の子が埃だらけの道端で足を停めて、店のガラスに姿を映して身なりを整えていた。彼女は裸足だった。

 あるいは物乞いの家族が路上で固まって眠っているのを見たとき。

 あるいは一人きりのホテルのベッドで硬くて冷たい毛布にくるまりながら、自分がいま、とても離れた場所にいるとふと感じ直したとき。

 サガールという少年に騙されていくらかお金を取られたとき。

 あなたの持っているその日本語のテキストを私にくれないだろうか、とネパールで少女に頼まれ、それを断ったとき。 

 そんな風景の断片を自分はいくつも持っている。

 目にしたもの、感じたものを全て悲しみの色で染めるのは、きっとその人が悲しい目をしているからだ。世界はきっと素晴らしいことだってある。けれども、どれだけ喜びがあろうが、どれだけ幸せが降り積もろうが、それは永遠ではないのだ。 

 最期には何ひとつ持っていくことはできない。 

 不幸にも?あるいは幸いにも? 

 いや、死においては、その問いはすでに意味をなさない。 

 おそらくこれから先どれだけ国を巡ろうと、どれだけ他人を眺めようとも、同じだろう。人が生きることの中には、自分が感じる寂しさを思わせる要素が、どうしようもなく組み込まれている。そして自分もまたその一人なのだから、それからは逃れることはできない、と分かった。 

 

 またしても自分はややこしい話をしているかもしれない。 

 誰だって歳を取り、誰だって別れに直面し、そして最期には死ぬのだ。手に入れたものは再び自分の手から逃れていく。寂しさの源は、きっとそれを知ったことかもしれない。 

 

 祖母は認知症になってからは、叔母の計らいでセンターに入ることになった。 

 自分は車椅子に乗ってつれられてきた細い祖母の身体や、もう何も分からなくなり、かつてのような説教も言えなくなった彼女を思いだす。まだ身体も丈夫だった祖父一人が家に残って、二人は別々に暮らしていたが、センターに入ってからの祖母の頭には、祖父の姿はあったのだろうか。

「おばあちゃん。お孫さんが来てくれましたよ」センターの人はみな優しい。 

 祖母は自分を見上げる。その表情は何も変わらない。 

 次に自分は、木製のお棺の前に立っている。そこには横たわり、化粧された祖母がいる。その遺体の周りには花が一面に敷かれている。 

 お棺の下には頑丈なキャスターがついている。やがて職員がそれをゆっくりと焼却場へと押してゆく。火葬場は暗く重い空気に満ちているが、それは照明の問題だけではない。自分は火葬場の壁に掘られた花の彫刻を想う。なぜ、そんなところに彫刻があるのか、と感じる。何かそこには行き着く果て、という風情がある。 

  

 たとえ親しい誰に手を握ってもらえようとも、肉親に囲まれようとも、人は一人で死ぬ。 

 これは真実だ。 

 

 このことをどう受け止めるべきか。 

 何かしらのできあいの答えならここに書くこともできる。 

 楽しい面を見ましょう。だからこそ明日に希望を持って生きましょう。 

 しかし、本気でそう思えないものを書いても仕方ない。今の自分にはこれに対する答えがない。それが人間としての自然な姿である、寂しさが本質である、とまでは言葉で追える。しかし、その一方で寂しさに心を揺らされる自分がいる。 

「わからない」と自分は言うしかない。

 いまだこれに対しての言葉をわたしは持たない。 

 

 いま、これを書きながらグレン・グールドを〈聴いて〉いる。

「北の理念」と題されたグールドによるラジオドキュメンタリーだが、これはグールドによるピアノ演奏ではなく、彼が北極圏に住む人々へのインタビューを編集し、それを多層的に重ね合わせたというちょっと変わった作品だ。聞いて見ると分かると思うが、声の上にまた声が重なるこの作品は、とても「音楽的だ」と自分は感じる。 

 グールドは北を愛した音楽家だが、その寒さ、孤独さの向こうに、明らかに何か特別なものを感じていた。おそらくそれは人を励まし、勇気を与えるようなものではない。無駄なものを削ぎ落とした先で人が生きるとはどう言うことなのか、それを北という土地に求めながら、おそらくグールドは「自分」を眺めている。自分のなかの、他人を拒絶し、そぎ落とそうとしていくところを。

 しかし、たとえどれだけ寒いところに足を運ぼうとも、おそらく彼が満足するような「北」は存在しない。もっと寒く。もっと純粋に。その姿勢は同時に彼がシェーンベルクに代表される無調音楽を愛し、演奏したことに通じると思う。このメロディーはどの感情にも着地しない。ただ音だけが存在する。ごまかしや気晴らしや、愛情すら入りこむ余地がないほどに。 

 それはまた一人で旅に出ようとした自分と同じだったと気づいた。 

 

 人はどこまで透明になれるものなのだろうか。 

 ひとが明るく笑う。その後何も残らない。

 

 彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起ったように思われました。すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。

      (坂口安吾「桜の森の満開の下」より)

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