世界情勢ですよ

 世界中でコロナウィルスが広がって、かたやロシアはウクライナに侵攻である。ついこの間まで〈平和の祭典〉オリンピックをしていたというのに。 

 日本はどのように振る舞うのが正解なのだろう。アメリカに習ってロシアに何らかのアクションを起こせば、その報復の可能性がでてくる。そうなったら武力を持たない日本は困る。ではここでいっそ、アメリカを切って中国とロシアにすり寄るか?それはそれでアメリカとの関係を崩してしまうことのデメリットがあるだろう。

 いじめっ子といじめっ子の喧嘩に巻き込まれたような感じで、どっちに転んでもどちらかが敵に回る。

 答えはない。

 そもそもどれが正解なのか、人類全体でめざすべきゴールが見えていないのだから、正解はない。何かしらアクションがあれば、利益を得そうなものは喜び、損をする者は不公平だ、と騒ぐ。それはなんとなく、洗面器に水を張っている感じを思わせる。誰かが水をかき混ぜる。波が立つ。でも、それだけである。洗面器の中にいる限り、ほんとうのところどこにも水は向かわない。いずれは蒸発して消えるのかもしれない。

 

 日常的な話に戻すと、普通に生活している者なら

「とりあえず自分たちが住んでいる日本が平和で、自分たちが豊かな生活を送ることができればいい。周囲の人の幸せはそれから」という程度が考える理想ではないだろうか。

 もしかしたらもっと高邁な思想を有して国や世界を憂えている人間もいるかもしれないけれども。自分のことをまず考えるのは悪いことではないし、それが自然という気がする。外国の人たちもやはり同じだろう。まずは自分が幸せに。それから他人も幸せに。

 

 進歩史観、というのか人類は常に発展しているとみる向きもあるだろう。まだ結核が不治の病だったとき、人が徒歩で歩くしか移動手段がなかったとき、人権という概念が無かったとき、それらと比べると我々は着実に進歩しているし、幸せになっているというものだ。

 何かしら問題が現れるたびに、それを克服しようと人類は努力してきた。

  それは確かで、その面ではよいことだと思う。でも、それと、どこに向かうのかということは違うし、なによりも本当に進歩しているのかどうか。

 心理学者の河合隼雄先生は「ふたつよいことさてないものよ」という名句をのこしてくれたが、自動車が誕生して移動が便利になると、その分だけ環境汚染やら事故やらの問題も発生するのである。人権が認められるのは結構なことだし、それは否定しないが、一方で人権を楯に不当な利益を得ようとする輩も出てくるのである。

 大学生だった頃、授業で教授が突然プラトンの話を始め、

「実際読んでみるとプラトン達の時代に比べて、人間はどんどん悪くなっているような気がする。あの頃の方がずっと人間は賢かったのではないか」と雑談のようにおっしゃられていたが、案外そのことをずっと覚えているということは、その指摘に自分もどこかで納得できるものがあるのではないか。でも、これだってちゃんと考えれば、確かに時代を経て悪くなっているようにも思えるが、よくなっている点も確かにある。

 結局のところそれは〈変化〉でしかないのではないだろうか。だってやっぱり、どうするべきか人類全体にゴールがないのだもの。

 

 とまれ世界は動き続けている。刻一刻と変化する世界情勢を我々は、現地にいて肌で感じるのではなく、マスコミからの情報をもとに、自分の中で組み立てて理解する。

 ウクライナの人たちは確かに可哀想だ。ロシアに侵攻され、ミサイルを撃たれ、今聞くと子どもたちの中にも死者が出ているという。それはひどい。ロシアの侵攻はやめるべきだし、今必要とされているのは暴力ではなく対話だろう。

 でも、我々はウクライナの何を知っているというのだろうか?感情論はともかくとして、何を?少なくとも自分はあの国に対してほとんど何も知らない。

 今、ウクライナに肩入れしている人たちは「どこまで」この物事に関わるのだろうか?関わるな、ということではなく、自分が言いたいのは引き際の難しさだ。

 あなたはどこに視点をもって、この状況を考えているのでしょうか?どこまであなたはこの情勢に関わるのでしょうか?

ロシアの暴力が好ましくないのは分かる。では、それにどこまで関わり、自分達に何ができるのか。感情ではなく、各人が各人で自分のできることを考えなくてはいけないと思う。

 

自分は田舎育ちなので、街に出たときにまず感じたことは、どこまで行っても街が終わらないということだった。初めて一人暮らしをしたとき自転車で周囲を周りながら、どこまでを自分の生活圏とするか困った。結局、そういった境界は自然にできていったが、無意識のうちに誰でも自分の生活圏というものがあると思う。

 それと同じように、どこまでを自分の思考の対象範囲とすればいいのか。

 これに対して、いまのところはずいぶん消極的にきこえるが、人類全体にこうあるべきという理想像が明確に示されない限り、与えられた環境でできる限りのことをする、というやりかたしかないような気がする。

 自分は自分の範囲内でできることをする。

 総理の人生と自分の人生は違うのです。なにも国民全体がコメンテーターになる必要もない。自分がテレビで観る街の声を好きではないのは、あれはその問題について考えてもいない人から、それらしい意見を聞くだけに過ぎないからである。分限が違うのだ。

国を動かす人、動かされる人、戦争するひと、金儲けをする人、ボランティアをする人、それぞれの場所にそれぞれがいる。

自分もやはり、その他大勢の人類の一人で、自分の場所は自分以外あり得ない。

 その時が来ればその時に応じた良い振る舞いをする。

 それが自分の限界である。何もえらいものになる必要もない。

 うまいことの一つでも言って文章を終わりたいが、浮かばないものは仕方ない。それぞれがそれぞれに徹する。そうしているうちにきっと世界はまた別の様相を見せ始めるだろう。 

 その世界の一端をにないつつ、あなたも自分も生きている。どうあれ平和。これは間違いなく大切なものだと思う。暴力はなんにも生み出さないのだ。当たり前すぎることだけれども、人類はときどきそれを忘れがちになる。

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