「わたし」をみる「私」 について1
いまわたしはキイを打ちながらこの文章を書いている。目の前に文字が連なっていくのが見える。わたしが押したキイに対応して画面上に文字が現れてくるが、キイを押しながら、その行為をしているわたしを感じている「私」がある。
たとえば、今もしも「私」がこれ以上、キイを打つのを止めようと思うとする。その意志に従って目の前の手は停まる。自分では止めようと思っているのに、手だけが勝手に動いて文字を打っていくことはない。すべてとは言えないが、わたしの行動はある程度自分の意志で統率できている。
いまから数回に分けて考えてみたいのは、大きくわけると二つの点である。
一つは、自分の行動とは、何によって発生しているのか、ということ。
意識がなければ自分の身体は能動的な行動ができない。呼吸をする・汗をかく・心臓が動く、などの生存本能による無意識の活動はしているとしても、この肉体を動かすのには、何らかの意志が関与していないと動かないのである。
しかし、どこまでその意志というものが、行為に影響しているものなのだろうか?
それは行為のすべての原因なのか?
次に、自分の行為を観察する「私」について。
先ほどキイを打っているわたしを眺めている「私」がいると書いた。
便宜上「わたし」と「私」と表記を使い分けるが、要するに「わたし」の行動を観察してみようとするとき、そこには背後に「私」がいるわけである。客観視でも、内観でも、言葉はなんでもいいけれども、自分の行為や自分の思考を、もう一人とは言わないまでも、別の思考が観察できるという事は実に不思議なことのように思える。
その不思議さを実感するには、観察という事を考えてみるといい。人間が何かに意識を向け、区別しようと思うのなら、そこには違いがないといけない。完全に同一なものは区別がつかないので、違いが分からないのではないか。
「いまわたしは怒っているな」「わたしはこれを見ている」と「私」が感じることができるということは、そこに違いが生じているからに他ならない。では、何が違うというのか。
答えが出るか出ないかはともかくとして、何かを「知る」ということには確実に意味がある。それは世界の見方を変化させる。
子どもの頃見ていた世界と、大人になって見る世界はまるで違う。子どもの頃の場所に今足を運んでみると、あの頃感じていた世界とはまるで違っていた、という経験はあるのではないか。あんなにも大きい川だったのに、あんなにも怖い路地だったのに。
それは世界が変わったのか?
いや、自分が変わったのだ。
時代を経ても、ひとの構造自体は大きく変わっていない。大きなところでは何も変わっていないのではないか。技術は確かに進歩したかもしれない。生活様式も変化しているかもしれないが、たとえば千年、平安時代の人間もまた、嬉しい時には笑い、時に何かを望み、泣き、そうして死んでいった。鼻で香りを嗅ぎ、目で世界を認識し、手と足を使っていた。
変わるのはむしろわたしの世界の認識の方である。
その認識を支えるもの、それを見つけたいと思う。
そこがわかれば、今立っているこの世界はきっと変わる。それはきっと価値をもたらす。