ことば・世界

 以前「役に立つ文章」というなかで、自分はこのように書いている。

 

  知っていないからである。

  本当のところは分かっていないからであろう。

  知る?そう、大事なのは腹の底から知るのはどうすれば良いのか、ということであり、それはまだ自分にも分からないのがもどかしい。

 

 理解、とはなんだ?

「理解している」と我々は言う。たとえば目の前に、赤いリンゴがあるとする。

「それはリンゴである」と我々は言う。そこにまったく疑いはなく、それが「リンゴであることを、我々はごく普通に理解している。触れれば皮の触感があり、かぶりつけば味わいが口に広がるとき、我々は疑いなくそこにリンゴが「ある」と認識する。

 一見すると、そのもの自体と、我々の認識自体にはなにひとつ距離はない。そのようにして日常の生活は営まれている。

 しかし、よく考えるとそこには言葉が媒介しているのだ。

 存在の感知から、理解までのあいだには言葉が橋渡しのように働いている。

 

 では言葉とはなんなのだ?

 余談だが、小説を書いていて、たぶん普通の人よりは言葉を扱うことは多いとは思うけれども、その一つ一つの言葉に、きめ細やかに視線を送り続けていたかと言われるとやや心許ない。自分の小説は言葉自体の力によるのではなく、その言葉を道具として、伝えたい世界や感情を表出する方に重きを置いている気がする。言葉のブロックを集めて「どうどう、見てよ!これが僕のつくったお城だよ!」という感じだ。

 それはともかくとして、言葉とは対象そのものを示すものではないことが分かってきた。対象そのものではなく、それが示す概念を理解させるためのツールである。

 

 例として引き続きリンゴをあげよう。 

 リンゴが「ある」と認識する。

 我々がそれを疑いなく「ある」と認識するには、

 1 まず視覚を通じてリンゴを見る。そこにリンゴのフォルムをしたものがあるとき、視覚段階で「リンゴがある」と理解する。

 2 続いてそれに接触する。手に持ったときリンゴが異常に軽かった、あるいは噛みついたとき中身が発泡スチロールだったりすれば、そのときそれは「(偽物の)リンゴがある」という認識へと変化する。あるいは手に触れようとしてすり抜けたなら、それは視覚を巧妙に騙した「映像だった」という認識になるだろう。そうならずに、自分の知っているいわゆるリンゴの感覚が返ってきたとき、ひき続き「リンゴがある」という認識は継続される。

 

 五感を通じて知った感覚から「リンゴ」という言葉が導き出されるのではない。「リンゴ」という言葉がまず先にあり、自分の中に堆積している体験から、目の前のものを言葉とリンクさせ、確認したのち存在を実感する。

 いわゆる言語がゼロ状態の幼児たちは、その言葉を覚えるはじめに、感覚の対象と一緒に言葉を教えられるのが普通だ。「絵本」から言葉の学びが始まるのは、対象を視覚で把握し、それと言葉とが関連しやすいからだ。視覚を通じてものの名前を覚え、やがて「暑い」「嬉しい」などの抽象概念と言葉へと進む。

 だから「ujGA+jsn9&&」は何も意味しない。今適当に自分が打ち込んだ文字列には、それと関連づける体験が誰にもないはずだから。

 

 となれば、いまさらの発見かもしれないが、我々は自分の周囲の認識を、言葉によって確認し「それがある」と理解している面もある。

 言葉は具体的なものから、抽象的なものにまで範囲を広め、編み目のようにして我々を覆っている。あるいは世界を区切っている。

 だから言葉とは、その国が堆積し続けてきた文化やら世界の見方を示すこともあるし(たとえば「世間」という語句が導く理解は、西洋にはないのではないか?虹の色の種類は国によってちがう。4色で虹を見る国もあれば、そこに8色見つける国もある)、新しい言葉の発見は、新しい感覚の発見である。(「ノリツッコミ」という言葉が現れて、共通する一つの振る舞いが誕生した

 

 それは同時に、言葉というものがどれだけ強く我々の存在認識を保証しているのか、ということでもあろう。

 いま「存在する」という認識のみに絞って言葉を考えてみたい。我々が、あたりまえにそこにあるもの、と思い込んでいる最たるものこそこの「存在」だからだ。そしてこれこそが最大の問題・不思議ではないか。

 自分が「いる」・リンゴが「ある」・世界が「ある」

「ある」ということを我々は疑わない。だっていまここに自分がいるじゃないか、と言う。でも、それがすべての問題のはじまりではないか、と思うのだ。

 本当に物事は思っているとおりにあるのか?

 言葉に騙されていないか?

 

 リンゴが「ある」と人は理解する。しかし、たとえばそれがホログラム映像だったということが後で分かったとき、それは「本当は具体的な形では存在していない」と認識は変化する。しかし、それまでは「ある」と理解していたのだ。

 自分と、リンゴの関係性においてはリンゴ自体の確実性は、最後まで不確かだ。

 この構造を自分自身に適応してみよう。

 わたしが「ある」と人は自己認識をする。しかしそこで感じる「わたし」とは、おおむねリフレクション(反映)する作用を持った無数の言葉による反映の集合体にすぎないのではないか。リンゴなら「色」「手触り」「味」ぐらいだったものが、人間の「わたし」の場合、もっと要素は増えるが。(にもかかわらず、これは予感なのだが、言語を解さない認識ということも人間には可能であるように思う。言語以前の何かでそのまま世界を受け取ることは可能なのだろうか?)

 

 なぜこんなにもややこしく言葉と存在について考えるのかというと、そこにひとが幸せになる方法があるような気がするからだ。どうあろうが我々は変化から逃れる事はできず、手に入れたものは変化しつつ失われていく。それが苦しいのだ。

 しかし、その苦しさを無くす方法があるのではないだろうか。存在そのものが、仮に言語による錯覚であるのなら、自分が感じる苦しさ自体も錯覚だろう。悩みそのものを破壊しようと思うとき、言語を分解することで、より深い理解にたどり着けるのではないか?

 そのようなところから考えはじめている。

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