音を聴く
音楽が細分化してなかなか久しい。
街中を歩いていると、若い人のほとんどがイヤフォンをしている。街中の音を聴くよりも、自分の世界の中に浸りたいということかもしれないし、みな各人の嗜好に合わせて、それぞれの好みの音楽を聴いているに違いない。
かつて音楽は仲間を結びつける働きをしていた、というと今の人からしたら意味が分からないかもしれないが、死んだ自分の祖父は友人達と家で飲むときは軍歌を一緒に歌っていたというし、校歌、野球の応援歌など音楽は、人と人とを結びつける働きを持っていたのだ。
なぜこうまで音楽が我々の生活に深く影響しているのか?考えてみると音楽が直接的に人の心を動かす作用があるからだろう。別の面から見ると他人をコントロールしやすいのである。
それにくわえて聴覚は距離を超えて伝えることができるようになった。人類は古くは彫刻から、そして絵画・写真によって視覚の保存・転送に成功し(時代によって、その細密度の度合いの違いはあれど)、続いて聴覚の保存・転送に成功した。それで一気に広まった。もしかしたら次は触覚あたりが再現されたら、いよいよ世界が変わるかもしれない。
それにしても便利になった。
いまの我々であればクリック一つで、中世ルネサンスの音楽から、アニソン、環境音まで何でも音を選ぶ自由がある。少し前までそれらを探しにCDを買っていた時代だったのに、媒体という重荷をすてて音楽はより自由になった。
細分化しすぎた我々の音の嗜好は、いよいよ細かくなっていく。これはきっと小説にも言えるし、マンガでも、およそ人が表現することであれば何でもそうだろうけれども、「大きなミュージシャン」が消えて「細かなミュージシャン」が増えている。
それにしたがって、ここ十年でいわゆる音楽のジャンルは大きく変化したと思うし、音の楽しみ方も増えていると思う。極端なことを言うと、環境音楽・ノイズ・ラップ・ポエトリーリーディング・アンビエント・民族音楽・テクノがごく普通に音楽ジャンルとして取り込まれているし、それらはスパイスのようにちょっとした味付けに使われることもある。
悪くはない。自分はこの傾向が大好きだ。
携帯画面を検索すれば、無限に音は探すことができる。
しかし、そもそも何のために音楽を聴くのだろう?
今ざっと考えても三つぐらいしか思いつかない。
(1)先ほど書いたようにムードをつくり上げるため。スーパーの音楽、葬式の音楽、卒業式、カフェのための音楽、車内の音楽、あるいは周囲の雑音をカットするために。
(2)音楽嗜好を、自分の表現手段とするため。自分の「好き」な音楽ということが同時に自己紹介ともなるから、音楽の趣味は同時に自己表現ともなる。
(3)音を聴いて自分の反応を楽しむため。喜びでも、懐かしさでも、悲しみでも、音楽を通じて人は自分の気持ちを揺らせて楽しむという面がある。感情を揺らせるのは娯楽というわけなのだ。同時にそれを楽しめる、という自分の感覚の拡大の娯楽もある。
もちろんこれらが入り交じる。コンサートなどは(1)と(3)の融合だろうし、そもそも厳密な分類ではないけれども。
それにしても人間はなんとまあ、娯楽を求めるのだろうか。結局は感覚を喜ばせる精度を高めるのだけれども、自分の好みにどこまでも寄り添える、ということはやはり結構楽しいことであろう。気が向かなければ、途中で停めて別の曲に行く。アルバム全体を通して聴く、というのは自分に関しては滅多になくなった。プレイリストという言葉が現れたのは、音楽がデジタル化したことと密接に関わっているはずで、音楽はその気になればどこまでも個人に寄り添えるようになっている。
ただ同時にそれは、音楽を作っている側から見てみると、いささか敬意に欠ける気もしないでもないのだが。すでに個人で聴く分には「プログラム」「アルバム」という概念が希薄化しているからだろう。曲は一曲一曲単位に細分化されてしまい、大きな流れは見えにくい。
これら音楽の向かう先はどこに行くのかわからないけれども、たぶん十年後にはまた新しい傾向の音の楽しみ方が現れているのだろう。
ただ、あくまでもそれは娯楽でしかないというのが残念ではある。人が生きる上で、音楽は気持ちを前向きな方向や、穏やかな方向に向けることはできても、それ自身が答えとなることはないだろうと思う。答えはやはり自分自身で考えて、見つけるしかないというところか。
そういうわけで、少し時間が空いたときなど、自分はイヤフォンをつけてソファにもたれながら、本を読むか、ぼんやり明かりを見ている。
どうですか?これ。こんな大人になるなんて若い頃は思いも寄らなかったな。
どこかのカフェで、イヤフォンをつけたままぼんやりと風景を眺めているスーツ姿の男がいたら、それはわたしである。よろしゅうに。