普通について思うこと

 普通とはなんだ?

 そのようなことを考えるようになった背景には、やはり自分が普通のところで止まってしまった、本当はもっと社会的でも金銭的でもいいんだけれども、そういった上昇志向というか、そういった夢を手に入れることはできなかったな、という悔いのようなものが自分の中にあるからかもしれません。

 勉強でも創作でもいいのですが、誰か他の人に認められるような仕事をすること。注目を浴びること、というのが、自分の若い頃の夢でもあったわけです。「夢」などという言葉はあんまり普段は使わないのですが、思い返してみるとこれが拙い自分の夢だった。

 つまりは名声を得ること。それさえあれば自分が持っていないものが全部手に入るような気がしていたんです。みんな注目してくれる。これでいいんだという居場所も手に入る。おかしいですよね、そんなの手に入れたこともないのにどうして分かるんだって。結局は自分の想像力の欠如です。

 往々にして夢の対象となる人々、具体的には高額納税者だとか、著名な音楽家や、世界的サッカー選手、セレブリティと呼ばれる人たち、もうすこし身近な例では海外を飛び回って仕事をしている人だとか、そういう「普通ではない」ように見える人たちがいます。

 なぜ、彼等は他人から憧れられるようになるのでしょうか。

 一般人には想像もつかないような金額を動かしているから?雑誌やテレビに映っているから?信じられないほど素晴らしいメロディーを生み出せるから?世界を変えたから?あるいは歴史に名を残すような世界的な発見者だから?

 ここで自分が強調したいのは、社会的な評価というものは全て相対的なものにならざるをえない、ということです。相手あっての評価です。負け惜しみで言っているわけではありませんよ。考えればほとんどの価値というものは自分一人では成立しないんですね。

 小学生達の算数の時間に高校生が混ざれば、それは天才でしょう。身長が180センチの男性というと日本では高身長で通るでしょうが、オランダでは普通の身長かも入れない。そういうことです。

 全ての人間が全く同じ評価を下すことなど、ほぼないと言ってもいい。

 極端なことを言うと、ヒトラーだってドイツの救世主だと思われていた時期があったんです。1933年彼が首相に任命されたときから、ヒトラーはドイツ民衆の味方だった。

 もしも本質的にそれ自身に価値があると言うのなら、ゴッホだって宮沢賢治だって同時代に評価されてもいいはずです。この観点は重要だと思います。なぜならざっと考えてもここから、評価と価値についての二つの点が指摘できるからです。

 ひとつは、社会的な価値を他人に委ねざるを得ないということは、自分ではどうにもならない領域があるということをしめします。極端な話、自分では文句なしに努力しても、まったく評価されないという事は「ある」。それはいつか評価される、という未来に賭けることはできても、何も報われないまま消えてしまうことは、確かにあります。

 もうひとつは、他人の集団という曖昧な存在を相手にするのだから、その評価は一瞬で変わる可能性があるということです。ヒトラーの現在の評価はみなさんも知っての通りですが、これが今度どのように変わるのか実のところまったく保証はない。

 たぶん、自分達が思っている以上に、有名人という人たちは不安なのではないかな、と思います。なにがきっかけで皆がそっぽを向くかもしれない。昨日まで好きだったアーティストが今日にはもう興味を失っている、ということは誰でも実感があることではないでしょうか。

 そのアーティストの賞味期限が切れた頃には、もう次のものがあらわれていて、そんな細胞の新陳代謝のように我々はその時代その時代で、価値を与えるのではないでしょうか。その無責任な好みこそ、名もない人間たちの特権かもしれません。

 つまりはいま評価されているからといっていつまでもそれが続くとは思わない方がいい、ということでしょう。これはどんな仕事にだってあてはまると思います。自分のやり方がいつまでも正しいということはない。

 

 それともうひとつ、考えたい事があります。

 たとえ功成り名を遂げたとしても、そのひとが人である限り、人間としての条件からは逃れられないという事があります。結局は、人間である限り、外の世界からの感覚を受容して生きているわけですから。心地よい刺激を得られれば嬉しいし、不快なことは避けようとする。

 人間であれば、東大生であれ、芸能人であれ、浮気すれば相手に嫌われる。身体は年齢と共に衰える、クスリをやれば身体が蝕まれる、好みの相手を見れば恋に落ちる。食べ過ぎれば腹が出る。喉が渇けば病気にもなる。

 古代エジプトの王が感じている生活の快適さと、現代人の生活を比べれば、圧倒的に今の方が快適ではないでしょうか。となれば、王様とか民衆とか、そういった肩書きは人間であるという条件の前ではかなり違いはない。そういう意味で、みんな自分が特別で、自分が中心にならざるを得ないんです。結局は自分の感覚を満たしたいだけなんだから。

 あいついい生活してるな、と思いながらも、その違いなんてほんとうにちょっとのもので。本質的には同じことをしているということは、案外無視できないことに思えます。

 そう考えると、わざわざ目立っている他人を羨んだり、励みにする必要もないのではないでしょうか。その人たちもまた同じようなレベルで生きているのですから。

 自分の感覚を満たす、という点から見るとすべてが「普通」の範疇に組み込まれてしまう気がします。結局は「普通」の人間世界の上でのできごとです。

 価値観の軸をずらせる

 そういう意味で、他人や社会に依存する名誉や金ではなく、人間の命というか、尊厳というか、人類の未来というか、そういうものに主眼を置く生き方は、もう少し「普通」という範疇から逸脱する存在ではないでしょうか。

 たとえば彼らは自分ではなく、人類を相手にして行動する。マザーテレサのような生き方、ガンジーのような生き方、マンデラのような耐え方、キング牧師のような力強さなど。

 しかしそこには能力が関係する。誰もがマザーテレサのような自己犠牲ができるわけではない。キング牧師のような勇気を持てるわけではない。

 こういった大きな力というか、尊い能力というのは、自己の持っている力と、それを受け入れ評価できる社会の、半分半分で成立していると思います。その二つが合致しないと彼らのような存在というのは成立しない。

 だからまだ発見されていないマザーテレサもきっとこの世の中にいると思いますし、条件が変われば彼らのように力を発揮できる潜在的な人間もきっとこの世にいるに違いない。その辺りの微妙さも包括する言葉として「運」とか「運命」という言葉を聞きますが、これはある意味ではうまい回収措置だと思う。

 ですから、生活する上では、自分も忘れてしまいがちですが、何もかも自分でできると考えないほうがいいと思います。

 半分は神様にでも預けてしまってもいい。もちろんできなかったことも同じです。失敗を自分だけのせいにする背景には、全て自分の能力で、できるはずだという勘違いがこっそりと潜んでいます。

 だから自分は自分のできることをし続けていくしかないとも思いますし、それはその人の条件によって違うでしょう。

これは仕事という面だけではありません。仕事はあくまでも外面的な条件です。そうではなく、その人の歩み方において、というと理想論的になると思うのですが、その人にとっての「善」の範囲とでもいうか。

「善」を考える。

そうなると大切になってくるのは、社会的な評価でもなく、人類全体の未来でもなく、もっと身近な「自分自身」ではないでしょうか。

 人格向上という言葉が今のところ最も理想的に思えるのです。「善い」とは何なのか、人はもっと考えるべきだし、もっとそれを追求すべきだと思う。

 ただ、その理想的な人間とはなんなのか、それが見えていないと、誰それの善と、誰それの善とが対立することだって出てくる。「正しい戦争」という言葉のように、お互いの正義と善がぶつかって結果的にひどいことになる。結果から見ても、その善は間違いです。

 うちが幾ら儲けた、うちが幾ら損した、というようなレベルの話ではなく、もっと根本のところから考える視野が欲しい。

 もっとはっきり言うと、人類全体で戦争が否定されるということは、命が大切と言うことです。皆が死にたくないということでしょう。

 となれば、まずはお互いの命の尊重をまず優先的に起き、次にその溝を埋めていき、その上での相互の妥協点を求めていき、というのが理想でしょう。甘いとは思いますが、人類全体でこうすべき、という「善」の基準がやはり欲しいです。それを倫理と呼ぶなら、これからの時代はもっと倫理が必要となるべきだと思います。

 

 今起こっている戦争にせよ、どうあれ人を殺していいはずがない、という前提に立つのであれば、それにつながるような要素。自分の中で他人を責める気持ちやら、傷つけることを抑えることが大事なのではないかと思うわけです。

 セルフケアという言葉になるのでしょうか。結局は自分を大切にすることが平和につながるのではないでしょうか。

 今後の価値というものは、社会的な注目やらお金ではなく、自分自身の人生をどれだけ大切にできるか、という点で見るべきに思います。だから、寄り添えるものをつくりたい。何もない日常を肯定したい、という気持ちが自分の中にあります。

 目立つものが尊いわけではない。各個人が変われば、それが第一歩になる、というのは甘いし、70年代この方言われ続けている古い理想なのかもしれませんが、やはりそれは確かな気もするのです。国と言っても、社会と言っても、それは各個人の集まりなのですから。

 

 

 

 

 

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