足元を見直す

 普段は意識することはないが、ふと自分の歩みを見直してみるとき、ひどい不安に襲われることがあった。自分はいままで何をしてきたんだろうか、という類のものである。生活の忙しさに追われているうちは、それを考えることはないが、ふと何かのきっかけで周囲を見回したときに感じる、あの寂しい感じ。

 いつか希望する場所に辿りつくこと。

 自分の人生が満たされていて、これでいいと自負できること。

 しかし、それは運の良い人間、才能のある人間だけのもので、そんな運命は最初から自分には開かれていなかった。自分はそれを知らずにずっと求め続けてきた。

 若い頃はまだ見えなかった。来年こそは、次の年こそは、と希望の実現を先延ばしにできる特権が若さだ。でも、それすらも無くなったとき、気付いたら取り返しのつかない膨大な時間が流れていた。

 そんなことを実感したとき、ひとは自分の歩みを疑う。

 後年、こういう気持ちになるとオルハン・パムクの『雪』という小説を連想するようになった。そこに出てくる登場人物達もまた、人生で誰も満たされることのない連中の哀れな話だった。

 何かをめざすと言うことは、そこに辿りつけないことに出会う可能性も抱きかかえることになるのだった。

 結婚できなかった人。希望する仕事に就けなかった人。途中で身体をこわした人。誰かの期待に応えられなかった人。愛されなかった人。売れなかった人。

 

 自分もまたそうだった。いつか書いたものがどこかに認められたらよいと願いながらも、その機会もなく就職して働いている。

 小説が認められない理由は、自分の作っているものがつまらないだとか、自分を売り込むことが下手だとか、すべてを捨てる覚悟が足りないだとか、検証できる結論などないのだから、なんとでも考えられる。

 しかし書くことを辞めるつもりはなく、なんとか一日のうちで時間を作っては、画面に向かって言葉を連ねている。そんな生活がもうずっと続いている。

 このまま自分がふと死んだら、遺してした作品はどうなるのだろうか、と思わないでもない。それらは誰にも知られずに消えていくだろう。自分が画面に向かって費やしてきた、この膨大な時間とは何だったのか。笑えない希望だが、もうその頃には自分は死んでいるので、悲しむこともないだろう。

 これで終わる。散々人に迷惑をかけて書き続けてきたものである。やめてしまえばもっと楽になっただろうに、何かそれを絶対なものであるかのように思い込んでやめることなく続けてきたものである。死んでしまえばそれも終わる。

 

 ありふれた。本当にありふれた人生だと思う。

 内容こそ違えども、同じような人間はたぶん街ですれ違う人間のなかにたくさんいるだろう。人はその人生の中で何かを求めるが、本当にそれが手に入るのか、じつのところ定かではない。

 そもそも手に入れた瞬間にそれは思っていたものではないかもしれない。願っていたそのこと自体が、正しい願いだったという保証もない。

 

 竹西寛子の小説のなかに、おとしぶみという虫が出てくる話がある。おとしぶみは、産まれてきた幼虫が葉を食べられるように、木の葉を丸めてそこに卵を産み付ける虫だ。葉を丸めたその形は巻物のようにも見える。

 主人公の老人は家の庭におとしぶみの葉を見つけるが、ある日、虫が苦労して用意したその葉が、あっけなく地面に落ちているのを主人公は見かける。そんな繊細な視線に支えられた短い小説である。

 おとしぶみの苦労は報われていたのか、作中では明らかにしない。ただ、自分は、せっかく時間をかけて葉を丸めても、それが報われることなく、葉が落ちてしまった、と読んだ。卵もきっと死んだ。でも、その悲しい話の方が自分の心情には落ち着きがいい。

 

 負け惜しみではないが、人の幸せの総量などたかがしれているのではないか。

 過去の芥川賞やら、文学賞の受賞者の名前を挙げて、いまも覚えられている作家がそのなかにどれぐらいいるか、という悪趣味なことをした作家がいた。

 その文章を読んだとき、悪趣味ではあるな、と思うたが、反面では、正しいなとも思う。そしてその忘却と無関心の墓碑のような列に連なりたいと、阿呆のように願ったのが若い日の自分であった。

 

 報われないことは確かに存在する。夢が叶った、努力は報われた、ということは確かに人目を惹くし、素晴らしいかもしれない。でも、人が生きる上で大切なことの側面に、報われなかった努力とどのように折り合いをつけていくか、ということもあるのではないかと思う。むしろそっちの方が大切なのではないか。

 

 オルハン・パムクにも竹西寛子にも、そこにはある種の悲しさと寂しさがある。でも、それが世界の真実の姿ではないのか。本当の人の価値はもっと別のところにあるのではないか。

 自分が書けるかどうかも分からない。でも、夢を叶えた人間ではなく、夢にも破れて、それでも生きているような、本当にありふれた人間に寄り添ったような物語をいつか書いてみたいと思う。

 人が生き、生活する、そのこと自体に価値があるような視線を示してみたい。 

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