漱石の寂しさ 1

 台風が行ってしまうと、もう途端に空気が夏から秋に移り変わるのは例年のことだ。今年は9月になってもまだ暑かったから秋 になった実感はなかなか持てなかったけれども、朝夕になるとやはり空気が違う。そしてキンモクセイの匂いがふっと街中で香り始めると、もう夏はどこか遠いところに行ってしまっている。

 季節の移り変わりというのはあまり好きではない。今はもう自分自身でうまくやり過ごせるけれども、例えば春の始まりの3月4月が本当に苦手だった。

 自分の仕事の関係もあるのだろうが、この時期は周囲の環境が大きく変わる時期なのだ。新しい関係、新しい役割――いずれも自分の意ではなく一方的に与えられるもので、それだけでも心苦しいものなのに、その上から新年度の懇親会というようなものもある。

 コロナが流行ったとき、自分はそういったアルコールの席がなくなったことが本当に嬉しかった。誘いを断ると角が立つような気がするし、かといって仕事終わりに、またビールのグラスを片手に仕事の話をするのも楽しくない。

 日本では、あのような宴席は年長者のためのものなのだ。まわりにいる連中はどれも知っている連中だし、入ってきた若手が脅威になることもない。いわば安全圏にいながら好きなだけ酔えるのだ。相手をする方はたまったものではないが。

 嫌な酔いを抱えたまま夜の街に出ると、空気はどことなく湿っていて、なにかの予感をはらんでいるようにどうも落ち着かない。そのくせ何か楽しいことがあるわけでもない。週が開ければまた仕事である。

 疲れるなあ、とふと思う。

 友川カズキの歌に「春は殺人」というのがあって、だいたいこの時期になるとこの曲を思い出した。殺人なのだ。そして殺されるのはきっと自分である。たとえば何の変哲もない夕暮れ前に、ひっそりと殺されているような。そんな殺人を思い浮かべる。

 なんとなく生命力が弱まり「死」の気配が強いのが3月なら「寂しさ」の気配が強いのが秋の9月だった。

誰かと別れるというわけではなく、もう去っていってしまったひとのことを想う。連絡も取れない、仮に取れたとしても今更話すこともなく、もうお互いに別人になっているひとたち。それを想う。

 それは過去の記憶をアクリルのキューブに閉じ込めて眺めているような感じに近い。手は触れられない。もう二度と自分がそれを手にすることもない。けれども、記憶はそこにあり、遠くから眺める。それで心が癒されるわけはない。でも眺める。

 

 なんだか単なる自分の気分だけを述べているだけのようだけれども、言葉にする、しないはともかくとして誰でもこんなふうな掴みどころのない気持ちにとらわれたことがあると思う。

 あると思うから書くのだ。誰でも、口には出せないし理由もはっきりしていないけれども、名状できない心の揺れに涙を流したことがあるはずだ。

 日頃過ごしている日常の中では意識することはない。けれどもふとした生活の向こうに、足元がおぼつかなくなる時がある。凍った海の上を歩きながら、その亀裂に目をやるとき暗く深い海がそこから見える。

 

 人が生きる背景には何かしらどうしようもないものがある。

 それをどうしようもない、と判断するのが人情だ。

 それがためにわれわれは人知れず涙を流す。

 それがためにわれわれはいつも新しい何かを探して、そこに希望を託す。

 目隠しをしてくれるように。見なくても済むように。

 

 目隠しの方法は簡単だ。どこかに意味を探すこと。当座しのげるだけの意味やら目的があればいい。もっと言えば自分が死んでも到達し得ないほどの、大きな目的があればいい。

 書店に行けばさまざまな本がある。本は世界観を提示してくれる。夢を見させてくれる。知らなかった何かを見せてくれる。生き方だって教えてくれる。気分だって変わる。

 成功者、芸能人、世界的なアーティスト、彼らは自分たちの持っていない才能や地位や金を持っており、近づけないにせよ、いや近づけないからこそ、我々にとって理想的な投影対象となるのだ。カリスマ、と呼ばれる人間には我々の心を引っ張る力があるが、引っ張るということは「どこか」に連れて行くことを意味する。大事なのは彼ら本体ではなく、カリスマによって我々が「連れて行かれる」というこの行為の方だ。

 もっと簡単にいうと、我々は生きる上で意味を必要としているのではないか。

 あなたは何もしなくていい、むしろ何もしてはいけない、と言われたときひとは苦しみを感じる。ひとは退屈に直面するとき苦しみを感じるのはパスカルが指摘しているとおりだ。

 だが、本当のところはそうなのだ。

 例えば宇宙の始まりから終わりまでの区間からみれば、人間が何をしようとも意味は極限まで希薄化すると思う。助けた命も消え、教えた教育も、通い合った感情も最後には消えてしまう。そして太陽はいつか膨張するのだろうが、その頃にはもう人類というのは消えているだろう。どのようにしようが存在の痕跡すらも残らない。地球そのものが無くなるのだから。

 ひとは生きている意味を発生させた。わざわざそんな必要のない宇宙的な目で見なくても、自分が生きているというそのせいぜい100年の期間を更に細かく区切ったスケールでものを見、その上で意味を見るのだ。

 ○○のために生きているといえれば、それだけで人は自分の生を肯定できる。仕事や家庭や外からの環境が、自分に強制的に責任を与えてくる。それに対応しているうちに年月が過ぎていく。

 意味の欺瞞に気づかないまま終わればそれはそれでいいかもしれない。でも、何気ない日々の奥底に何かしらたよりないものが流れている。それに気づいてしまったとき我々の人情がそれに対応して震える。意味の魔法はいつか消える。

 誰かが教えてくれなくても、年令を重ねていろいろなものが離れていくときひとは抱えていた意味を持て余すようになる。少なくとも自分はそうだった。

 

「寂しさ」と「侘しさ」の意味合いが違うというのを知ったのは最近だ。

 webio古語辞典をそのまま引用させてもらうと

 

 「わびし」が思うようにならない、やりきれないといった失意の念が根底にあるのに対して、「さびし」は、何かが失われて物足りない、活気がなくなりさびれているという欠如の感じが根底にある

 

 これに従うなら「わびし」が成立するには意志がないといけない。何かを獲得しようとすることがあり、それが叶わぬとき失意が生まれる。だが、さっきから自分がなんとか伝えようとするこの「どうしようもない」という感じは、意志ではなく、人が生きること自体に内包する感情であり「さびし」の範疇に入るものである。

 

  私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。

       

 夏目漱石はこの「さびし」を感じていたのではないだろうか、と思うようになった。

 結局はひとがひとであることの寂しさの影がそっと流れている。

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