幸福と小説について
幸福と小説について少し考えたいと思います。
ひとは誰でも幸せになりたいと思います。
たとえばいま病気のひとは快復することが幸せにつながるでしょうし、好きなひとが振り向いてくれたらこれも幸せでしょう。試験の結果が良かったことや、大会で優勝することなど、自らの欲求が叶えられたり、自らの優越性や成長を感じたりすることは、ひとの心に幸せをもたらすのだと思います。とりわけすぐに手に入れられるものではなく、長年の苦労が報われたときなどはそうじゃないでしょうか。欲しくて欲しくてたまらない文学賞を与えてもらえれば、自分なんてもう泣いて喜ぶでしょうね。
他にも散歩などして気持ちの良い感じを受けること。芸術に感動すること、おいしい食事をとること、子どもに笑いかけられること、誰かの好意を感じること、など身体の五感に心地よい刺激を受けることも幸福の一つかもしれない。
あるいは家族が皆健康でにこやかに暮らすこと、仕事がうまくいっていること、何一つ心配がないこと、言い換えると「嫌なことが起こらないこと」ということも幸福のひとつの形でしょう。「嫌なこと」とはこの場合「自分の感覚に好ましくない変化が起こらないこと」とも言いかえられるかもしれません。
今ざっと思いつく程度で三種類あげてみましたが、簡単にまとめると、自分の感覚にとって「快」に当てはまるものが幸福なのだと思っています。日々の通勤の合間とか、生活の合間でそんなことを考えてきました。自分自身、幸福になりたかったんです。
しかしですね、これら幸福はある特徴があるんです。何も新しい発見ではなく、お釈迦様からこのかた言われ続けていることなのですが、これら幸福もまた「諸行無常」なのです。すべてのものは変化してしまう。そして小説ではこの「諸行無常」はとても大事な要素となる。
ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』でも、手塚治虫の『火の鳥』でも『平家物語』でも良いのですが、自分はそれらの作品を読んで、なにか大切なものや美しいものが消えてしまう寂しさを感じました。そして自分もそういうものを書きたいと思いました。自作の『カンポ・サント』でも『ランドリー・ノート』にも諸行無常は流れています。とはいえ作品を書いているときにはそのようなことはまったく意識しませんが。
今日の朝、鏡を前に自分の寝起きの顔を見て
「老けたな」と思いました。ほうれい線のあたりにしわがあって疲れた顔をしている。それを嫌だな、と思う自分がいました。よく「年を取るのは美しい」とかいう文言を見ますが、「じゃあお前は老けたいか」と言われたら自分は嫌です。髪の毛はあったほうがいいし、シワはないほうが良い。若いと言われたら嬉しくなる。その気持ちはたしかにある。しかし、事実は一日一日と自分は老けていきます。誰でもそうです。
諸行無常はちょっと観察すればどこにでもあります。毎日の変化が少しずつすぎるので気づかないだけで、スマホのタイムラプスみたいな視点で自分の人生を眺めたら、その変化に驚くと思います。昨日と同じ今日はない。いつまでも続く感情はない。
そして肉体や物体がそんなふうに変化し続けるものであれば、人の心のような形のないものこそ、不変なわけがない。ずっと昔「人の心は金で買える」と豪語したすごい人がいましたが、どの状態をもって「買う」とするのかわかりませんが、仮に金で一時的に人の心を惹きつけたとしても、金が切れたら離れていくでしょう。金が続いたところで、相手の心は今度はそれに慣れて変化していくでしょう。
人の心自体が変わるのです。嫌なことですが事実です。
昨日までは親友だったのに、今日なにかのきっかけで心が離れることがある。自分のことを振り返ってみればよく分かると思います。ずいぶん自分勝手に、他人のことを共感してみたり嫌ったりしてきましたからね。それなら他人も同じでしょう。
自分の場合、たとえ人と仲良くなったとしても、その人との別れを心のどこかで構えるようになりました。喧嘩するのか飽きられるのか、それはわからないけれども、いつかは離れていく、とどこかで終わりを構えることで、自分が過剰に傷つくのを防いでいる気がする。スレているといえばそうなのですが。
じゃあ何か永遠のもの・頼りきれるもの・安心できるもの、があるのか?と言うと、これが「ない」。
死後に永遠の世界に行くというイメージは確かに安心を与えてくれるように見えます。自分の祖母は、もう死ぬだろうというとき、病床で「お母さんがきている」とつぶやきました。それは一つの救いだと自分は思う。死ぬときに家族のような人たちが迎えに来てくれる、天国から迎えが来るというイメージは一つの安心の形だと思う。なぜならそれはある意味で映画のような一つの終わりの形であり、現世からみれば見事なフィナーレですから。
それは祖母にとっての幸福だったとは思います。
でも死後、何らかの世界に行く、というイメージが自分にとってはリアリティのないものなのです。少なくとも自分の感覚がそのまま死後も続くというのが、ちょっと疑問に思えるところもあります。よく自分は言うのですが、産まれてすぐに死んだ赤ん坊は、まだ自立できない存在です。彼らは天国に行ったらどうするんだろう?周囲を認識しても理解はできないんだから、そこでも誰かの世話になって成長させられるんだろうか、と。では、それは誰?
死についてはまだわからないままです。その先はわからなくとも、ただ確実に自分たちは死ぬということは言えます。視線を現世に戻すと、それはつまり我々はどんなに憎みあおうとも、愛し合おうとも、別れてしまう、ということが言えるでしょう。
永遠の命、というのは本当に古い昔から人間の課題でした。「人間の知られている中で最も古い作品」と称される『ギルガメシュ叙事詩』は紀元前1200〜1300年頃の作品ということですが、主人公ギルガメシュは親友エンキドゥの死を悲しみ、自らの不死を追求しようとします。しかしすでに作中でギルガメシュの希望は否定されています。
ギルガメシュよ、あなたはどこまでさまよい行くのです
あなたの求める生命は見つかることがないでしょう
( 『ギルガメシュ叙事詩』矢島文夫訳 ちくま学芸文庫 より)
この儚さ、この寂しさ、はひとに与えられた宿命だとも言えます。
それでもひとは別れない・変化しないことを願うのです。それは仏教で言うところの「無明」でしょう。真実はそこにあるのになぜか人はそれを理解できないのです。口先ではなく、諸行無常を本当に理解することは難しい。その無明からはじまる「もののあはれ」を日本のひとたちは大切にしてきたと思うし、ここでは詳しくは論じませんが、その情感に注目することがいわゆる日本の小説を主観的なものにしてきた一要素となったのでしょう。
ひとは幸福を求めて、裏切られて、また別なほうに幸福を求めて、裏切られて、というまま死んでいくというのが大半ではないでしょうか。
小説でも映画でも、およそ人間の人生を扱った創作はその意味で、その変化し続ける波のような「諸行無常」をどこかで切り取るもの、と考えられるかもしれません。
一流の作品を受容したあとなど「これから主人公はどうなるのだろうか?」と思わず想像してしまいますが、そこで終わるからこそ、作品という人生のイミテーションは完結するのです。シンデレラは王子様と幸せに暮らしましたが、その後王子様の浮気が原因で、離婚し、歳をとって孤独に死にました、は現実です。でも、幸せに暮らしました、で終わるのが小説です。
そのように、無明のなかで人が生きることの一局面を切り取って、読んだ人に何かしらを反映させ、心を揺らせること、意味があるとすれば、それが小説の存在意義なのだと思います。でも、それでどうなるの?と言われたとき、自分は答えがでません。小説を読んで何か人間を上等なものにしよう、とトルストイなら考えるのかもしれませんが、それも違う気がする。それなら説教を書けばいい。自分は小説を通じて説教してやろう、何か教えてやろうという立場には反対です。そこから読み取るのは読者で、何を読み取るのも自由です。だから小説を書くことは自分にとっても問いかけであるように思います。「これはどういうことだろう?」と。読者の背後にいながら一緒に問いかけるもの。
しかし面白いもので、「小説はこのようなものだ」というような考えを「一つ小説に落とし込んでやろうか」と思っても自分の場合はどうにもうまくいきませんが。
書いているときは、ほとんど何も考えていません。ただ毎日言葉を紡いで、出来上がって見直したときに、うっすらと自分がしたかったことが見えてくる感じです。したがって完成しても出来はわかりませんし、狙いというものもありません。少し残念ですが、いつでも何かを狙って、何かを取り逃がして、という感じです。 これは死ぬまで変わらないと思います。