バレンタイン
これは僕らの子どもだ、とかなり照れながら、ごまかすように音楽家は言った。
そんなのおおげさだ、と思いながらも彼女の方も悪い気はしなかった。そうして、もう一度、テーブルの前に彼が置いた白いCDRに目をやった。印刷面には丸っこい特徴的な彼の字で、彼女の名前が書いてあった。それが曲のタイトルだった。
いつだったかの日、彼女は音楽家の部屋で、遊びのようにピアノを弾いたのだった。 昔どこかで習ったフレーズをうろ覚えで指でなぞったつもりだったが、そもそも誰の曲かも憶えていない。習ったことじたい、もしかしたら勘違いのかもしれない。
「それ、もう一回弾いてみて」と音楽家は言った。「さっきの。もう一回ゆっくりと」
やや戸惑いながら、彼女は言われるままに、たどたどしくメロディーをたどりなおした。そのあいだ音楽家はじっと耳を澄ませていた。
とうとう彼女は手を止め、彼の方を向いた。
「おしまい。もう覚えてないわ。適当に弾いただけだもの」
音楽者は緊張した猫みたいに、どこかに空中に強い視線を向けていたが、さらに「もう一回弾いてみてくれないかな」と返事しただけだった。
自分でも理由は分からなかったが、音楽家は彼女の事が本当に好きだった。
二人で会うのは川沿いのカフェが多かった。庭にはいくつかテーブルがあって、だいたいそこは外国人観光客で埋まっていた。
彼等は陽の当たらない店内のほうに席を取った。窓に面した二人がけのソファがいつもの場所だった。そうして向かい合わせではなく横並びに座った。彼女はビールを注文し、彼の方はハーブティを頼んだ。
二人でいるときは彼女が喋った。音楽家の方は特に聞いて欲しいことなど思いつかなかったし、彼の感動する音楽の話は、彼女には興味はないようだった。彼女の方がふっと言葉が途切れると、必要な時に音楽家が短く言葉を添えた。そうするとまた彼女は話し出した。それで良かった。
別れ際にいつも二人はキスをした。彼女を駅まで送る途中の、誰の姿もない物陰で、あるいは道端で。誰もいないことを確かめてから、短い時間にこっそりと。
彼女の方には夫がいたから会える時間は決まっていた。夫が仕事に出かけているあいだと、音楽家のレッスンの空き時間(その頃、彼は演奏ではなく、教えることで生計を立てていた)がうまく重なったときだけ、二人は会えた。
ごくまれに、彼女の夫が出張で家を空けるときがあった。その時だけ彼女は音楽家の部屋に行った。そうして彼の部屋の掃除をし、料理を作り置きし、誰にも見られる心配のない環境で彼の腕に飛び込んだ。
それはいつでも、音楽家には星の巡りを思わせた。軌道と軌道がうまく合うときだけ、自分達は重なることができる。
彼女と別れて一人で部屋にいるときに、音楽家は、いま夫と一緒にいるだろう彼女のすがたを想像した。夫の顔は分からなかったし、話で聞く程度だったので、それはいつでも曖昧な男性像でしかなかった。それでも彼女の顔や素振りは簡単に想像することができたし、そういうとき、音楽家は携帯電話を取りだして、彼女と送り合った思いやりに満ちた言葉のやりとりを読み返した。
曲はわずか三分少しの短いものだった。伸ばそうと思えばそれもできたが音楽家はそれを避けた。彼は曲を楽譜にまとめてから、スタジオを借りて録音した。
「君がくれたフレーズがあったから、この曲ができたんだよ」
それは実際に美しい音楽だったし、運とか、アイデアとか、そういった彼の手には負えない要素がうまく彼の目の前で組み合わさってできた感じだった。改めて自分で聴き直してみても、今後同じようなものが作れるとは思えなかった。
後年、音楽家は自分のコンサートの最後にその曲を弾いて終わるのが常になった。表向きには「バレンタイン」というタイトルをつけていたが、内心では、いつでもそれは別のタイトルだった。
秋が過ぎた頃、彼女の夫が身体をこわした。最近、疲れが普通ではない、という些細なことからはじまり、用心のために検査をしたところ胃の中に腫瘍が見つかった。手術は行われるが、それ以前に他に転移がないか精密検査の必要があった。
これは天罰だと彼女は思った。
最初に彼等が出会ったときと同じように、川沿いのカフェで二人は向かい合わせに座っていた。やがて彼女は音楽家に、もう会うことはできない旨を伝えた。彼に言うつもりはなかったが、夫の病気を伝えたとき彼女は周囲の目を気にせず泣いた。しゃくり上げる彼女に手を伸ばし、もう片方の手で冷たくなった彼女の指に触れたとき、何かが終わったことを音楽家は知った。
彼の生活のなかから彼女が消えてから、音楽家は彼女の嫌だったところを思い出して、何とか忘れようとした。
映画館で、途中で席を立たれてそのまま戻って来なかったこと。せっかく時間を合わせて金沢まで旅行に行ったのに、駅についてすぐに帰りたいと言われて二人無言のまま帰ったこと。喧嘩したときに誕生日を無視されたこと。
でも、そんな事を思い出してみても、やはり彼の心はどうしようもなく彼女を求めていた。彼女が見せた失礼な態度も、きっと彼女の方でも何か仕方がない事情があって、そうしたのだろうと思うと、もう怒りは湧かなかった。最後まで彼女の気持ちに寄り添おうとする自分を音楽家はもてあました。
それはほとんど呪いだった。何が起ころうとも彼は彼女を諦められないのだ。
彼女が消えたその空白だけ彼の仕事の運が向いてきたようだった。
知人の伝手で、個人書店のフリースペースを使って、半時間ほど自作の演奏会を開くことができた。終了後、来年も来て欲しい、と彼は頼まれ、それが三回目を迎えたとき、デビューの話が持ちかかった。
音楽家は歳を取った。
岡山の教会のホールで彼はピアノを弾いていた。余った当日券目当てで、開演前から教会そばにはいくらか人の姿が見られるほどの人気ぶりだったが、音楽家にとってはもう売り上げや評判はそこまで大きな意味を持っていなかった。
ずっと独身だった彼は、すでに自分の死後の遺産の振り分けを弁護士と決めていた。半分は慈善団体に、そうして残り四分の一は、彼が愛した猫たちの保護代に、最後に残ったぶんはそう親しくもない血縁だけの関係の親戚に。
彼は大きなホールではなく、客の顔が一人一人見えて、親密な空気を感じさせる場所を好んだ。だからここ数年の活動は、もっぱら小さな場所ばかりの演奏に限定していた。そんな彼のことを、枯れたとか、一線を退いたとか評価する声もあったけれども、別にそれならそれで構わなかった。自分がいなくても、若手はたくさんいるし、本当のところ彼がピアノを弾く理由など、もう自分でも分からなくなっていた。
その日、プログラムを終えて、最後のアンコールになったとき、彼はそのとき初めてステージの前で観客に挨拶した。そのときドアのそばに立っているある女性に彼は気付いた。
その人は痩せていて、すでに髪にも白いものが混じっていたが、音楽家には間違えようもなかった。彼女は非常口の扉に隠れるようにしながら、そっと舞台を見守っていた。彼はもうそれ以上、そちらの方を見る勇気がでなかった。
このあと彼女に挨拶できるのだろうか?これまでの本当に長かった年月を、彼女に伝えることはできるだろうか。彼は大きな軌道を描きながら動き続ける星の巡りを思った。彼女がきまぐれに弾いたフレーズが自分をここまで運んできたという物事の奇妙さに改めて感じ入った。聞くべきこと、話すべきこと、聞きたいこと、話したいことはたくさんあったが、それが叶うかどうかは分からなかった。それもすべてステージを終えたときにわかる。物事はなるようになっていくだろう。
「最後の曲になります」と彼はゆっくりと観客に伝えた。
本来なら、いつもここでタイトルを言うのだが、音楽家はその日は、黙ってピアノの前に座った。指が震えそうになるのを抑えて、この曲だけは今からたった一人だけのために演奏しようと決めた。そうして深呼吸してから、静かに鍵盤に向かい合った。
「バレンタイン」と感極まった観客がどこかでささやいた。