思いがけず
思いがけず折りたたみ式のカートを壊してしまった。折りたたみレバーの取っ手がどうも動きにくかったので、グッと力を込めたら取っ手が折れてしまった。接着剤でくっつけても、割れた部分は力が加わる場所なので、根本的な解決にはならない。
取っ手の部分は壊れても、その箇所に指をひっかけて使えばちゃんと稼働はする。しかし使いやすさ、という点ではやはり劣る。
方法としては
1 メーカーに連絡して、修理の相談をする。
2 使いにくいのをなんとかごまかして使っていく。
3 今使っているものを廃棄して新しいものを買う
の三つぐらいが挙げられるが、たったこれだけのことなのに自分はずいぶんへこんだ。
あのときもう少し慎重にカートを扱っていれば、という後悔もあったし、修理相談やらするのも、そもそもカートが外国製のものなのでややこしそうだ。
つまらない日常の一コマなのだが、これって絶対に誰でもあることだと思う。
思いがけず、というもの。
「あのとき、もう少しこうしていれば」
とあり得なかった可能性を考えて人は悩む。
自分が悩んだのは、自己認識の中で「取っ手を壊す」という行為の可能性をまるで考えていなかったからだ。そのようなはずが自分の上に起こるはずがない、とどこかで考え、その可能性を排除していた。だからそれが起こった時に「動揺した」わけである。後悔はそのあとで起こる。
記憶というか、意識というか、現状と過去をそこですりあわせたとき、今起こっている状況と、意識することなくこうあるべきだと感じていた意識とのズレに気付き、そこに落ち着かない自己の揺れを抱える。
「なぜ、〈わたしが〉こんなことに」という呻きのような後悔の発言は、失敗したというその行為自体ではなく、それを引き起こした自分への責めとなり、なぜ、と言いながらも、その答えは決して自分を満足させ、安心させることはない。
今後どのように気をつけるか、などのような言葉を発したところで、すでに物事は起こってしまい、過去に戻る事はかなわないからだ。悩みは結局のところ、感情の範疇のものであり、そのぐるぐると出口のない停滞状況は何も現状を動かすことはない。
問題の解決ではなく、悩みが終わるのはいつか?
悩みの種類によってその長さは変わるだろうけれども、結局は自分に照らしてみる限り、時間が経つのを待つしかない。数日経って、数週間経っているうちに、我々は更新されて、悩むこと自体も忘れていく。人間はそのようにできている。
その背景には「わたし」というその存在自体が絶対的なものではない、という、いつもの話があるが、起こった問題自体については、おそらくどの選択肢を選んだところで、物事は落ち着くべきところに落ち着いて流れていくのだろう。
第二次世界大戦が終わった日、世界のどこかで誰かが悩んだろう。
大学受験合格発表の日、人生が変わった誰かが悩んだろう。
病院の診察室で、医者に病名を告げられた日、誰かが悩んだろう。
血まみれで倒れている相手を前に、刃物を持った男は悩んだろう。
そもそも「失敗しないわたし」というもの自体が実は間違いなのだ。
失敗の概念の対には成功がある。このばあい成功とは「意図したとおりの結果」という意味だろうが、その意図がどれくらい現実の要素を加味して、その上で導き出しているのか、不明であろう。
たとえば花瓶を割ってしまったとしても、花瓶を持つ手の汗の出具合、その日の湿度、花瓶の素材、瓶に活けた花の重さ、水の重さ、などなど考え出してしまうと要素は無数にあるはずだから。
何も失敗を正当化するわけではない。だが、この悩み。
悩みは無駄であるときっと納得したとき、それは消える。
だからここでは考えを変えて、
「意図したとおりのことが常に起こる」と考える自分を疑うべきなのだ。
もちろん成功することはある。
だが、われわれは失敗する生き物であり、絶対的な事はない。
変化は常にある。悩まず、考えろ。そして動け。