そしてーーまたとりかえしのつかない事故 余は日暮れを待って逃げ出す
屋敷一面に火が回った。
火は屋根にまで達し、そこだけうごめく巨大な朱色が天に満ちる星を照らした。井戸そばの家畜小屋からは、逃げられない牛たちの必死な鳴き声が響いていたが、近所の者が駆けつけたときには、もう誰も火と黒煙が強すぎてそこに近づくことすらできなかった。
すでに余は女の手を引いて夜の道を急いでいた。
ほとんどわけがわからないうちに自分の家まで戻り、野菜を運ぶ時に使う荷車の上に女を乗せて、日の暮れた夜道を走った。
東に向かって郷境を越えることが先決だった。
そこまでいけばーー
そこまで行けば、その向こうには海があるはずだった。海の傍には漁村があり、魚売りがいつもそこから干し魚を売りに来る。海には船が来る。それは同時に海の向こうにもまた国があり、人が暮らしていることを示していた。
余はできればその海すらも越えたかった。自分の知っている世界の限界を越えて、新しい土地で名前を変えて女と住み、自分の生活をやり直すのだ。
誰の姿もない夜の山道を急ぐ余の頭上に月が出ていた。八割方満ちた月が雲の合間から顔を覗かせるたびに山道はさっと白く輝いた。荷車を引く余の影が長く地面に伸びた。足元の石を蹴飛ばしながら余は口の中をからからにして走った。
「あんまり急がないで」と女は言った。「お願い。あんまり揺れると苦しい」
「だって早くしないとニワトリが鳴く。そうなったらじきに日が昇るよ」
「わかってる。でも、ちょっと待って」
女は一度、余に車を停めてもらうように伝えた。ふらふらしながら車から降りるなり、女は地面に吐いた。余はすぐさま足を動かして、女の吐いたものの上に土をかけた。
「何してるのよ」
「誰かに気付かれるかもしれないだろ。この道を通ったことは知られたくない」
「そんなのわかるわけないでしょ。少し落ち着いてよ」
「俺は落ち着いてるよ」と早口で余は答えた。「変なのはお前のほうだよ」
女は口をつぐみながら、じっと余の顔を見た。が、黙ってまた荷台に戻り、毛布代わりの布を頭からかぶった。月の光のなか女の顔は本当に真っ白だった。そのせいか女の瞼は重く膨れてなんだか余には見慣れない感じに見えた。
「わたしずっと身体の調子がおかしいのよ」
「あんなことがあったから……」と余は答えた。
「違うの」と女は言った。「多分、わたしお腹に子どもがいる」
荷台を引きながら、いま彼女から背中を向けていられてよかった、と余は思った。
余はたいがいのことはできたし、知識も豊富だった。それは彼の父親が役所務めで、学者たちとも交際し自ら探求することを好む人間だったからだ。兄弟の一番下だった余はほかの兄弟たちよりもこの父親に可愛がられた。そうして様々なことを教わった。
星の動きと人の生死が重なり合うこと、病は身体のなかにある流れが引き起こすこと、世界は見えるものと聞こえるものの二つの側面があること。すでに五歳の頃には余は経典に興味を示し、詳しくは理解できずともいくつかを暗記していた。
賢い子だ、と父親は余のことを周囲の大人に伝えた。
余が成人になる少し前にその父親が亡くなった。それを機に余は家を出た。
父親や兄弟のように官吏をめざせば、それなりの生活ができるのは分かっていた。いつかは妻をめとって祖先をまつりながら生きていく。それはひとつの幸せではあるが、それを選べばそのまま自分の人生が終わってしまうと彼は感じた。
多分世界には、目で見えたり感じたりする以外に、もっと何かがあるはずだった。それは直感でしかなかったが、いわゆる神仙の世界の者たちは、普通の人が知らない世界の秘密に触れているようだった。そこまでは行かずとも、学問をもっときわめて、身の回りを観察することで、もっと本当のことが見えてくるのではないか、と余は信じていた。
父親の喪が明けるころ、余は父親の知りあいの医術者を頼って、県を越えた南の村に向かった。だが、あいにくその先生は余が訪ねた二週間前に亡くなっており、村の方でも医者がおらず困っているところだった。
その医術者はひとり暮らしの変わり者だったので、そのまま余は村人に請われるまま、その医術者の家に棲みついた。余は朝のうちに薬草を集め、日が昇ると患者を診察し、夜は星を眺めて世界を観察した。家には医療に関する書物もたくさん残されていたが、何よりも有益だったのは実地の経験だった。
村に来て三年目に、余は隣村の農家から診察を頼まれた。
妻の体調が思わしくないから診察しに来て欲しい、という若い夫からの依頼だった。
そのとき初めて余と女は出会った。女は夫に手を引かれながら物憂げに余の前に現れ、床の上に座った。肌が薄いのか熱のためなのか、目尻から下まぶたにかけて朱でも塗ったように赤く染まっているのが余には印象的だった。
余が女の白い手首を手に取ると、女はびくっと身体を震わせた。
「大丈夫」そうささやきながらも、余の方も緊張していた。「わたしは医者だから」
食欲は?ここは痛みますか?ここを押すとどうですか?
女と話しながら、余はだいたいの病気の目星をつけていた。
そのあいだ様子を見に何度か中年の女性が顔を出した。夫は振り返って「母さん、こっちに来ちゃダメだ。向こうに行っていて」と叫んで追いやった。そうして自分は膝の上に両手を置いて、手品を見守る子どものように、目を大きく見開きながら余と女とのやりとりを眺めていた。
診察をおえて余が家の外に出ると、夫がついてきた。彼は余よりも背が高く、鳴いたような目をした男だった。
「先生、あいつ妊娠しているということはないかい?」
「それはないでしょうね」と余は答えた。「奥さんは多分血の巡りが悪いのですよ。それがもとで身体の調子が色々と悪くなっているのでしょう」
「俺は妊娠していればいいと思ったんだ。それであんたを呼んだんだ」
余は一度家に戻ってから、昼過ぎに幾つか薬を持って戻って来た。強めの薬と弱めの薬があったが、余が選んだのは効き目の弱い方だった。
夫の見ている前で、余は小さな壺をとりだし、そこから椀の中に粉をふた匙入れた。水を注いで飲み薬を作ると、彼はそれを全部飲み干すように女に伝えた。
これを毎日、目覚めの時と寝る前に服用すること。ひとつきほど経てば身体の熱も下がるでしょう、と余は夫に説明した。奥さんは身体が丈夫ではなさそうだから、たまに様子を見に来ます、と余は言った。
女を連れて郷境を越えた余は、若い頃に家を出たのと同じ手口を使った。
県城の周囲の村に父親の知りあいの儒者が住んでいたはずだった。その人はずいぶん前に亡くなっているはずだが、余はそれを覚えていた。
ふたりは何も知らずにその儒者を訪ねてきた若い夫婦を演じた。山を越えるときに強盗に襲われたので、荷物もずいぶん減ってしまった、と儒者の家の者に説明すると同情された。
女が妊娠していると分かると、家の者たちは自分の屋敷に彼等を住まわせようとしたが、余はそれを丁寧にことわって、代わりに川そばにあった小屋を借りることにした。ヨモギで屋根を葺いたあばら屋のようなところだったが、それでも余からすれば充分だった。
できるならもっと早いうちに東に逃げて船に乗るつもりだった。歩き続ければじきに海に出るはずで、そうしたら船に乗れる。だが女の腹は次第に膨れ始めて、とうとう隠せなくなってきた。これ以上進むのはさすがに無理だった。
余は小屋の前に簡単な看板を出して、診察をはじめた。どこでもそうだが、大きな病でなくとも体調不良を抱えた者はいる。
余は村人に尽くした。診察のほかにも、村の豚の病気予防にエサに薬を混ぜることを村の者に教え、旅に出る者がいれば最も良い日取りを占いで調べてあげたりもした。
そういったことをしているうちに、何人かが余を信頼し、何かと生活の世話を焼いてくれるようになった。昼の間は村の女たちは小屋に立ち寄って、女の話相手になったり、食べ物を分けてくれた。余の方は請われれば村の者に混じって道路工事を行い、草刈りにも出た。
余が帰って来たとき、すでに陽は落ちていた。手探りで戸を開けると部屋の奥の暗がりがわずかに動いた。女は床から身体をもたげて、おかえりなさい、と言った。
「酒の匂いがする」と女は珍しいことを余に言った。
「俺は飲んでいないよ」と余は正直に答えた。「出されたけど一滴も飲めなかった」
「ああ……そう。そうして欲しいわ」と女は言った。
今日は村で池の整備だった。ここのところ大雨が降るたびに池のどこかしらが決壊するので、村人総出で堤防を強化することに決まったのだった。やがて来る雨期に備えて、村では畑仕事のあいまに皆でその仕事に取り組んでいた。今日の席はその仕事が一応の完成を見たことのお祝いだった。
余は女の隣に腰を下ろして深く息をついた。こういうとき、出会ったばかりの女だったら自分から傍に寄り添って彼の話を聞いてくれたものだが、今の女は床から動こうともせず、ただ仰向けになって窓枠から外を眺めていた。そこから弱い月の光が差し込んで、もうずっと置きっぱなしの女の手鏡と化粧箱を照らしていた。ここ最近、女はもうずっと化粧をしていない。して欲しいと言えばそれどころではない、と怒られるに決まっているから、余は黙っていた。
手に入れてしまってから、女は変わった気がした。でも、それが女というものなのかもしれなかった。
「疲れてるのね」と女は言った。
「うん」と余は答えた。
「なにかあったの?」
「行商人の男がいた」と余は言った。「そいつが言うんだ。『西の方でひどい事があった。女房が旦那を刺して、その上で火を付けたらしい』って。その話知らないか、と聞かれたよ」
「どういうこと?」
「そのままだよ。そいつは皆に訊いていたよ。まだ犯人が見つかっていないから、こっちまで県から尉史をつれて役人が来ている」
「何も言ってないでしょうね」
「俺らが西から来たのはみんな知ってるから、適当に話は合わせた」
「その女が別の人ってことはないの?」
「わからない」と余は答えた。
「そんなの嘘ばかりじゃないの」と女はいらいらした声で言った。
「ああ、間違ってる」
「刃物を用意していたのはあの人だし、あなたもわたしも刺してなんていない」
ふたりはそれぞれ沈黙の中に落ちた。
「嫌になるよな」と余は言った。「こういうのはほんとうに嫌になる」
自分の身体に色々な布が絡みついているようだった。それがまた別の布と絡みついて、余の身体が重くなる。それが余ひとりだけの問題なら構わないのだが、いまは女もいた。
暗がりの中で余は指先で爪を噛んでいた。それは小さい頃からどうしても治らない癖だった。そのせいで余の爪はいつも短く爪先はギザギザだった。そうしているうちに余は故郷の子正という若者のことをふと思いだした。
子正は妻と仲が良かった。あるとき、妻が干し牡蠣にあたって寝込んだとき、子正も残っていた牡蠣を食べて同じように熱を出した。妻ひとりで苦しむのは可哀想だから、と子正は言った。妻が死んだら自分も死ぬと言う。
皆はそれを笑ったが、男と女が一緒に暮らすというのはそういうところもあると余は思う。言葉や態度だけではなく、もっと深く、本人たちにはどうしようもない巡り合わせのようなものが働いて同じ運命になるように結びつくこともあるのだと思う。
彼は寝転んだままの女の傍に寄り添って、髪の毛を撫でた。
「なあ、おまえ」と余は女に優しくささやいた。「それでも俺はこれでよかったと思ってるよ。いまこうして一緒にいれるんだもの」
できれば女の方からも「わたしも一緒で嬉しい」という返事が欲しかった。
今日の仕事はかなりきつかったが、何よりも行商人の言葉が自分を揺らせた。普段は元気な様子を見せているが、余は自分の気が弱っているのを感じた。が、女はそんな余の期待通りに返事せず、喉が乾いたし朝からほとんど何も食べていない、と繰り返した。余は黙って水瓶と干した杏子の実を女の傍に置いた。
夫はおそらく余と妻のことに気付いていたはずだった。
だから酒の席を用意したいと誘いが来たとき余は覚悟した。
あの人はきっとあなたを刺すつもりだと思う、と女は言った。だから何か適当な理由を付けて断ってほしい、とも。
「行くよ」と余は沈んだ声で答えた。「行かなければ余計に怪しまれるもの」
そのときふたりは干し草の上に並んで寝転んでいた。女はまだ服を着ていなかった。
いつも小屋で会うときには、小屋の壁板の隙間から外をうかがって、誰もいないのを確認してから女が先に出た。それから時間をおいて余も出る。そんな小細工をして人目を避けていたつもりだったが、それは自分達にとっての「つもり」なだけで、どこかで誰かが見ていたのかもしれない。それにしても突然の酒の席だった。
結局、余は自分の言葉の通りに夫の家に向かった。
夫婦の家は里の中心から少し離れたところに一軒だけ離れていたが、それは家の両側に田畑と大きな家畜小屋を持っていたためだった。
屋敷の門の前で夫は手を後ろに組んで待っていた。やって来た余に気づくと、夫は無言でついてくるように身振りで示した。広く天と通じた中庭が見え、ガチョウが群れでその中をのんびりと歩いていた。
夫はそのまま西側の回廊を進んだ。屋敷の西側には倉庫と大きな家畜小屋があり、前を通るたびにそこから乾いた草の匂いがするのが常だった。ここの皆が〈黒〉と呼んでいる大きな牛が、柵の向こうから通り過ぎた余に気づいて一回鳴いた。
「先生、うちは静かだろう?」とこのときようやく夫が口を利いた。「家の者全員みんな外に出てる。土地神の祭が近いからね。いまここは俺たちだけなんだよ。ちょうど良いと思ってね」
室内に入るとふたりは正座して向かい合った。卓の上にはすでに料理が用意されており、ニラ玉と川魚が目の前の皿に並んでいた。
どれも妻が料理したものだ、と夫は言った。おかげであいつもすっかり元気になった。あいつは羹をつくるのがうまいんだよ。なんなら用意してもらえばよかったね。それと酒がある。俺は酒には弱いが、先生は好きだろうからたくさん用意したよ。
きっと女は隣の部屋からこちらの様子を覗いているのだろう、と余は感じた。だが、彼女は一度も姿を現そうとせず、夫の方は余に酒を勧めながら、自分も何度も杯を重ねた。
「ところで先生はなぜあんなところに行くんだね」と夫はなんでもない、という様子で余に訊ねた。「ほら、川のほとりの小麦の倉庫さ」
「あの傍ではセンキュウが採れるのです。手足のしびれや、からだの火照りに役立ちますので。士則さんのお母さんに頼まれているのですよ」
「お前さんは婦人の病をよく見るね」
「たまたまでございましょう」
部屋は暑く、空気は蒸れていたが、ずっと余はこの家に来てから寒気ばかり感じていた。
夫の意図はまったく余には読めなかった。あたりさわりのない雑談が続いた。主に夫が話した。家畜の話や、銭の話、息子が欲しいという話などを余に伝え、夫は杯が空になるたびに自分の瓶を傾けた。
いつの間にか陽が暮れていた。余が帰ろうとすると夫が引き留めた。彼はふらつきながら立ち上がると燭台を取り出してきて火を付けた。ぼんやりとした明かりがふたりの間に広がると、かえって見えないところの闇が濃くなった気がした。
何度も同じような話を繰り返しながら、夫は余に酒を勧めるのだが、余の杯の酒はまったく減っていなかった。口をすすいでくる、といって井戸に出てそのまま帰ってしまおうかとすら余は思った。
そんなことをぐずぐずと余が思っているあいだに、やがて台に肘をついて夫は薄く目を閉じた。余が声を掛けると代わりに夫の鼻からいびきが洩れた。
燭台の灯心が突然、ジジジっと音を立てた。
余はびっくりして息を詰めそちらに目をやった。
そのとき屋敷がぐらっと揺れた。余には視界を含めて自分の周囲の空間ごとぶれたような気がした。台の燭台が転げ落ち、足元の布の上に油のしみがひろがった。小さな火が目の前で上がった。
余は慌てて立ち上がった。火を消すなら早く足で踏みつけて消さなくてはならなかった。ふと気づいて振り返ると女が立っていた。扉の前で女は強ばった表情を浮かべていた。その瞬間、女はいままでずっと自分たちの様子を覗いていたし、女も自分もこの状況の前で考えていることは同じだと余には分かった。
「火が……」と余は言った。
「ええ」と女はうなずいた。それから早足で余の腕にもたれかかるようにした。
重ねた女の手は冷たかった。余の手も同じだった。
いまや火は大きくなりはじめていた。
女の腹は膨れはじめる。
余はそれからも仕事に出た。狭い家の中で女とお互いに向き合っていると時間が間延びしてしまうようで苦しかった。余が何を話しかけても女は億劫そうで、聞こえないふりをすることもある。
数日ごとに彼等は喧嘩した。余はあるとき女に、その腹の中の子は本当に自分の子どもなのか訊ねた。
「いまさらつまらない事をいわないで!」と女は怒った。「あなたの子に決まってるじゃないの。わたしあの人に身体を触らせなかったんだ。あの人が誘っても断ったんだ」
「すまなかった。俺が間違ってたよ」
「その事はもう二度と言わないで」と女は言った。「誰の子であれ、どっちにしても同じじゃないの。なんでいまそんなこと言うの?あなた何が恐いの?」
村の仕事がないときには余は家を出て、薬の材料になる薬草を集めた。依頼があれば近所の村まで向かって診療もした。だが仕事が終わって帰る頃になると、このまま過ぎていこうとする時間を思った。流れる川を手でせき止めようとするようなもので、何もしなかったら自分達はいずれどこかに流されてしまうのだった。その先にどのような生活や感情が待っているかは未知だったが、女を連れて逃げたときに思い描いていた場所ではないだろう。
夜になると余は星を見た。あるいは移り変わる空の色から自分達の運命を測ろうとした。だがなにひとつ、自然は余の明確な運命を見せてくれなかった。
「あなたが何を考えてるのかわかるわ」
口数の減った余に対して、ある夜、女が言った。
「何にも考えていないよ。もしもお前が子どものことを話したいなら、俺は産んで欲しいって思ってる。心配するなよ」
「だめよ」と女は言った。「だめ。それじゃわたし達、ひどいことになるわ」
「ひどいことって?」
女はそれには答えなかった。黙っていると、外で虫の鳴く声がひどく騒がしく聞こえた。女は壁にもたれながらまっすぐに余を見つめていた。いつの間にか一日の中で陽の気が薄れはじめ、ひそやかに季節は秋に変わろうとしていた。
逃げてきた自分達には冬の蓄えも準備すらもない。
「ここにいたらきっといつかひどいことになる」
女の方が余よりもずっとはっきりと自分達の行く先を見ているようだった。
「何でもないことなのよ。このお腹が元に戻ればそれで全部終わりよ。あなたもきっとそう願ってる」
「やめてくれ」と余は言った。「それはお前の勘違いさ。そのお腹の子は俺の子だよ」
「そういう意味じゃないの」
女は倒れ込むようにして余の胸に身体を預けて、ふたりの身体を密着させるようにした。内側から張ってくる膨らみが余にも感じられた。その膨らみを撫でるべきなのかもしれないが、余にはそれができなかった。代わりに彼は女の頭を抱きかかえ、その髪を撫でた。
ふたりはしばらくそのままの姿勢で抱き合っていた。
いつの間にか女は泣いていた。女は手で涙を拭いて「ごめんなさい」と言った。「悲しいからじゃないのよ。勝手に出てくるだけだから気にしないで。女が泣くのを、あなたが好きじゃないのは分かってる。わたしは平気だから」
昨日の昼、近所の女性たちが数名でやって来た。彼女たちは世間話の体を装いながら、ある家の名前を尋ねた。あなた達が来たという西の郷では有力な家だから知っているはずだ、と女性たちは言った。
「嘘だってきっとばれてる」と女は言った。「なんとかしないと。誤解があったとしても、もう誰かがわたしたちの事を訴えているかもしれない」
「でも、証拠なんて何もないんだよ。あれは事故だもの」余は言った。「子どもを産んでから逃げればいいさ。あと半年……なんとかうまくごまかして」
「馬じゃあるまいし、赤ん坊を産んでからすぐに動くなんてできない。ねえ、本当に手遅れになるわ」
女はまた泣きだした。
「本当にあなたと早く会えていればよかった。そうしたらーー」
「そうだね」
「わたし、あなたの事を大切に思ってる。好きだよ。最初に会った時に、それが分かった。夫と一緒にいたときも、あなたのことばかり考えて、会いたいってばかり思ってた」
「俺もそうだよ」と余は言った。「伏羲には女媧がいる、南には北があり、昼には夜がある。それで一つだ。片方が俺なら、もう片方はお前だよ」
本当には嘘がある。しかしその言葉は余にとって本当のつもりだった。余にとって女がどれほど大事な存在で、一緒にいることでどれだけ満たされるか。考えや意見のズレや喧嘩をも愛おしい。ただその気持ちの底にはあの夫が常にいた。優しく抱きしめあうふたりの手は醜かった。
「わたしがこれを言うのはとても苦しい」と女は言った。「でも、あなたがいつまでも決められないならわたしが決める。あなたできるんでしょ。前に言っていたわね。赤ん坊を堕ろしたことがあるって。あれは嘘?」
「嘘ではないよ」
「それならあなたを信じるわ。あなたが出ている間、川に浸かって身体を冷やしてみたりもしたし、トウケイの木の皮をお腹に当てたりもした。でもダメだった。もうあなたがするしかないのよ。ねえ、そうじゃないとわたしの身体が本当に危なくなるのよ。死んじゃったらもうどうしようもないじゃない。あなたに身体を全部任せるから」
四日間、余は家に女を残して郡の市場まで行った。人の間を縫うようにして市場を巡り、必要な薬を袋に詰めながら、これは人がやるべきではないことなのではないか、と怯えている自分がいた。
女に嘘はついていない。たしかに以前、若い夫婦に頼まれてこっそりと堕胎したことはあったし、患者の女はそれからも無事だったはずだ。しかし本当にあれは確実な方法だとは言い難い。患者の女を相当衰弱させた。手遅れになってもおかしくなかった。
必要なものを揃えているうちに日は過ぎていく。
じっとしているのが苦痛なので、余は宿にいるあいだ、深夜に郡城の外壁あたりをうろうろと歩いて過ごした。そのうちに朝霧が晴れはじめる。石壁を朝日が照らす頃になると、門番の詰所に左手の部分だけ袖をなびかせた片腕の男が現れる。一日が始まる。
余はフラフラしながら宿に戻った。そういう日が続いた。
郡からの帰り道、城の外を通るときに余は死体を見た。ヒゲを生やした男と、髪を振り乱した女が並んで重なって道端に捨てられていた。ひどいにおいだったが、それよりも自分の家に帰るときに死体と出くわしたことに、厭な運気を感じた。
翌日の昼過ぎ、余は女に調合した丸薬と、水薬を飲ませた。
女は素直にそれを飲んで、糸が切れたように眠った。
女が再び目を覚ますまでずいぶんかかった。そのあいだ、余は女の眠る寝台の前で、椅子の背を抱きかかえるようにして座りながらずっと女を眺めていた。そのうちに余も目を閉じるのだが、やがてすぐに目を覚ます。
ここ数日、ほとんど寝ていないので、身体は眠ろうとするのだが、そのたびに神経が冴えて起きてしまう。自分がひどく痩せたのを余も感じていた。指を当てた自分の顎は鬚だらけで、骨張っていた。
やがて女が目を覚ました。余は立ち上がって、上からのぞき込み、女の頬を撫でた。彼女は余と目が合っても微笑まなかった。ただ真剣な顔立ちで天井を見上げていた。
お腹がおかしな感じがする、と女は言った。身体の中を蛇がひっかき回しているような、そんな感じがする、と。
「ねえ、とても切ない。とても悲しいの」と女は言う。「もしもこれがうまくいったら、今度はちゃんと元気な赤ん坊を産ませてくれる?」
「もちろん」
「また会える?どうなってもわたしを探してくれる?」
余が女を抱いたことが女を苦しめる。余が女を愛したことが女を苦しめる。誰かを所有することは、苦しむことをもれなく引き連れる。
そのうちに女がうなりはじめた。額に汗を滲ませて、口から低い声が漏れるなか、余は厚い敷布を用意した上に女を立ち上がらせた。そろそろだった。余は用意していた麻紐を女の手の中に握らせた。それは天井の桟に巻き付けた紐で、女がそれにつかまって体重を掛けられるようにするものだった。余の生まれた村では、赤ん坊が生まれるときにはそのように女たちは紐を使って出産する。
女の裾をまくって見やすいようにした。女が身体をねじって恥ずかしがったが、余はもう女の顔を見ていなかった。薬の効き目が確かなら、じきに少しの出血があり、それに混じって骨も手も固まりきっていない未熟な魄が出てくる。それさえ出てしまえば終わりのはずだった、だが、その兆候はなく、頭の上から女の「痛い、痛い」という声が漏れだしたので、余は中指と人差し指を入れて中から取り出そうとした。が、降りて来るはずの魄はまだ女の腹の中に引っかかるように流れてこない。
「余!余!」と女が彼の名前を呼んだが、余はそれには返事せずに息を詰めながら指をさらにぐっと奥に入れ、中にあるはずの塊を引き抜こうとした、小さなぶつん、という手応えがあった。気付けば自分の手が赤く染まって、たちこめた匂いが鼻をついた。
余は焦った。女の太ももから流れ続ける血を、余は手の平ですくい取って元に戻そうとした。血は女の精気であり、ことを早く終わらさねば、女の気はますます散逸してしまう。西日が息を詰めた余の顔を照らしていた。生々しい血と肉の匂いが広がっていた。女の身体が痙攣した。そのまま崩れ落ちようとする女の身体を背で支えながら、「もう少し、もう少し」と余は呟き続けた。
八歳になった時、余は父親に「世界というものはどのようなものなのか」と訊ねた。父親は「卵の中身のような混ざった世界を盤古という神が天と地に分けたのだ。それだから世界は陽と陰に分かれたのだ」と答えた。
「そうなると陽だけのもの、陰だけのものはありませんよね。天のない地上などありませんもの」と余が言うと、「その通りだ」と父親は笑った。
父は言う。陽があればそれに見合う陰が発生する。お前はほかの兄弟と比べてずいぶん利発で、たくさんのことを覚えたね。それに俺たちは今日はほんとうによく働いた。お前もよく手伝ってくれたね。朝に俺らが耕して作った畑、昼に俺らが撒いた種は、時が満ちたらきっと大きな実りになる。そういうものだよ。これからもたくさん勉強して、人の助けになりなさい、と父は余の頭を撫でた。
西日が暑かった。部屋は静かで、何の物音もなかった。
今だけ一瞬時間が凍結されたようだった。やがて物事が動き出し、余をまた追い立てるに違いなかった。泣こうが絶望しようが、何をしようが残酷に物事は動く。余はひとりだった。
ふと手を止めた余の頭に、父親との記憶が蘇った。
余はぐったりともたれかかっている女の名前を呼んだ。返事がなくても、まだ呼び続けた。
そしてーー
本作品は
柿沼陽平(2021)『古代中国の24時間』中公新書 を参考にしています。ありがとうございました。